彼もわたしとともに食事をする

静まりの時 2022年10月7日(金)
黙示録3・14~22

「また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。
『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。
 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。
 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」
(黙示録3・14~22、新改訳2017)

 イエスさまは、私たちの傍らに立って心の扉をたたいてくださいます。復活の主は、戸を閉じて集まっていた弟子たちのところに来てくださいましたから、私たちの心の扉を開けることはたやすいことです。しかしそうはなさいません。私たちが自らの心の扉を開くのを待っておられます。
 私たちは素直に心の扉を開くでしょうか。もし開けないとすれば、何がじゃまをしているのでしょうか。
 イエスさまは私たちのことをよくご存じです。私たちが「生ぬるく、熱くも冷たくもない」ことを、よくご存じなのです。私たちが、この世の富に溢れ、豊かで、足りないものは何もないという状態であっても、実際はみじめて、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることを知っておられるのです。
 しかし私たちはそのことが分かっていません。だから、神さまが必要である、イエスさまが私にとってなくてはならないお方である、ということが分かっていないのです。分かろうとしないのです。そのことが分かっていないので、心の扉を開かないのです。
 正直に自分自身の姿を見つめましょう。そうして自分にはイエスさまが必要であることを知りましょう。イエスさまにしか解決がないことを知らしていただきましょう。イエスさまは私の創造主です。すべてのものの創造のみなもと、根源です。このお方のところにまことの平安があります。悔改めて、方向変換をして、自分自身に頼る生き方から、神さまを御頼りする生き方へ変えられましょう。
 生ぬるい生き方から、熱心になって悔い改める生き方へ変えられましょう。自分の正しさにしがみつく生き方から、神さまの愛の中にすべてをゆだねましょう。
 イエスさまは、私たちを叱ったり懲らしめたりされます。それは愛されているからです。神さまの懲らしめを軽んじてはいけません。疲れ果ててもいけません。神さまが熱心になって私を導こうとされているのです。心の扉をたたいてくださっているのです。
 心の扉を開きましょう。熱心になって心の扉を開きましょう。自らが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることを、神さまの前に正直に認めましょう。このような者の心の中にお入りください、あなたとともに人生を歩みたいのです、と神さまの招きに応えましょう。そうしてイエスさまの食卓にあずかりましょう。

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」

 イエスさまを心の王座にお迎えした者はみな、勝利を得る者、勝利者とならせてただけます。勝利者は、イエスさまと共に、イエスさまの「座」に着かせていただきます。イエスさまの座とはどのような座なのでしょう。それはイエスさまが父なる神さまとともに父なる神さまの御座に着いたのと同じである、といいます。三位一体の神さまの御座に、私たちも招かれているのです。この祝宴の喜びに招かれているのです。
 どんなに、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であっても、この食卓に招かれているのです。この祝宴の喜びから私たちを奪うことのできるものは何もありません。

 礼拝は、この喜びにあずかることです。この喜びにあずかるためには、熱心に悔い改めなければなりません。たとえ礼拝に参加をすることができたとしても、熱心に悔い改め、心の王座に主イエスさまをお迎えしない限り、この喜びにあずかることにはなりません。礼拝は、悔い改めと、そして主の食卓にあずかる、主とともに食卓を囲む喜びにあずかることです。

 プロテスタントは、み言葉の糧、という言い方から、礼拝で語られる御言葉そのものが、食卓であり糧である、と考えることが多いかもしれません。しかし歴史のキリスト教会は、主の食卓とは、文字通り食事をすること、すなわち聖餐式のことである、としてきました。みことばが語られるのは、この主の食卓のための備えということなのです。もちろん、だからと言って説教が大切ではないということではありません。私たちは御言葉の糧をいただき信仰の備えをいただき主の食卓に招かれるのです。ですから説教を中心とした礼拝と聖餐式によるパン裂きの両方が大切なのです。

 これは、礼拝堂の正面スペースのデザインに表されています。説教台が中央に置かれているのには、説教を中心とすることを大切にしようとのことでしょう。聖餐卓の大きさや置かれている場所には、聖餐式に対する考えが現れているものです。かつて祭壇のある教会では、正面に聖餐卓が置かれていたので、司式を行う者は会衆に背を向けていることになっていったい何をやっているのか、会衆からは見えない、というようなことだったようです。現代では、聖餐卓は、司式者と会衆がこれをはさむように置かれています。歴史的には、この聖餐卓が正面スペースの中央に置かれ、説教台や司式台は、そのわきに置かれていることでした。現在もルーテル教会などは、聖餐卓の、両脇に少しスペースを空けて説教台、司式台が置かれているようです。カトリック教会では、大きな聖餐卓が中心で、そのわきに小さな説教台、司式台が置かれています。説教台と司式台の区別や、その位置についてはできればあらためて皆さんで考えてみるのも良いことではないかと思います。