静まりの時 2022年9月23日(金)
第一サムエル16・5~13
「主はサムエルに言われた。『彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』・・・エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。主は言われた。『さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。』サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。」
(第一サムエル16・7、12~13、新改訳2017)
「主は心を見る」。しかし選ばれたダビデは「彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった」と紹介されます。ちょっとカクンときます。神さまはうわべではなく心を見られるのだ、と言われて、心落ち着かないのは私だけでしょうか。どうぞ心を見てください、などと言える人がいるのでしょうか。もしおられたとすれば、よほどの高慢か、はたまた自分を知らないかのどちらかでしょう。
ですからこの「主は心を見る」ということばは、神さまは外面ではなく内面で評価されるのだ、という理解よりも、もう少し違う理解がふさわしいのかもしれません。
さて、それはさておき、神さまはいまだ王の地位にしがみついているサウルを退け、また年端もいかないダビデを王として召されました。サムエルは怖れますが、神さまに従うしかありません。サウル王の知らないところで、次期王の任命式は完了しました。
だれも予想しなかった選びがここに行われたのです。それが神さまのなさり方でした。こののち正式にダビデが王となる道が前進していきます。
サウルは気の毒ですね。身から出た錆、ということではあると思います。しかしこののち記されてることを見ると同情したくなります。サウルはどうすればよかったのでしょうか。どうすべきだったのでしょうか。リュティの説教集から少し引用してみましょう。
「サウルが王位からはずされるとともに永久に失われた者となるということではないのです。サウルには、今、かれのように高い地位にあった者の常として、その地位を退いたのちは、どこかで野菜づくりを楽しんだり、養鶏を営んだり、木を切ったり、あるいは貨幣蒐集に熱中したりして、年金をもらってひっそりとすごし、やがて幸福な死を迎えることがゆるされます。サウルはただそのことに気がつけばよかったのです! 自分の出番が終わったことを悟りさえしたらよかったのです! 神のみこころに従いさえしたらよかったのです! サウルは、これまで二度にわたってサムエルから聞かされた明瞭なご処置に、狂気になってさからうという、身のほど知らずな考えをもちさえしなければよかったのです! そういうことさえしなければ、サウルは、自分や家来やすべての民らを、深く悲しませるはずはなかったのです! けれども、サウルは、イスラエルの神と自分と、どちらが力において優っているかを、あつかましくも競おうとします。そうすることによって、はじめて、かれの一時的であった没落は決定的なものとなり、かれの永遠の救いが問題となるにいたります。」(リュティ、『預言者サムエル』、新教出版社、1977年発行、268頁f)
ダビデについては
「ダビデは神のみこころによってイスラエルの王となるように定められはしましたが、かれが王の職務につくことがそのままかれの最終的な救いを保証するというのでもありません。かれがついには救いから洩れるかもしれないという可能性は、晩年にいたるまで常につきまとっているのです。ダビデがあやうく神の恵みから落ちそうになったことは、一度ならずあったのです。」(前掲書、269頁)
神さまの選びは変わることがありません。しかし自らの高慢によってそれを放棄してしまうという危険性はなくなるわけではないということでしょうか。いつも謙遜に、へりくだって神さまのみこころに従う者でありたいと思います。ただ救われていることだけを、喜びとして生きたいと思います。