あなたと一緒にいる兵は多すぎる

静まりの時 2022年9月24日(土)
士師記7・1~7

「1 エルバアルすなわちギデオンと、彼とともにいた兵はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミディアン人の陣営は、その北、モレの丘に沿った平地にあった。
2 主はギデオンに言われた。『あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが「自分の手で自分を救った」と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。
3 今、兵たちの耳に呼びかけよ。『だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデ山から離れよ』と。』すると、兵のうちの二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
4 主はギデオンに言われた。『兵はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをより分けよう。わたしがあなたに、「この者はあなたと一緒に行くべきである」と言うなら、その者はあなたと一緒に行かなければならない。またわたしがあなたに、「この者はあなたと一緒に行くべきではない」と言うなら、だれも行ってはならない。』
5 そこでギデオンは兵を連れて、水辺に下って行った。主はギデオンに言われた。『犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にせよ。また、飲むために膝をつく者もすべてそうせよ。』
6 すると、手で口に水を運んですすった者の数が三百人であった。残りの兵はみな、膝をついて水を飲んだ。
7 主はギデオンに言われた。『手で水をすすった三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡す。残りの兵はみな、それぞれ自分のところに帰らせよ。』」
(士師記7・1~7、新改訳2017)

 ミディアン人とは、新聖書辞典によると

「サラ亡き後のアブラハムの妻ケトラによる第4子.その5人の子エファ,エフェル,エノク,アビダ,エルダアは『多くの国民の父』であるアブラハムの子孫とされ,アラビヤの諸部族となった(創25:2,4)」

とありました。この時代のイスラエルとの関係については、同じく新聖書辞典には

「士師時代にはミデヤン人はアマレク人,東の人々と共に現れ,略奪などしてイスラエルを苦しめた(士6:1‐6).」

と書かれていました。
 とりあえずイスラエルにとっては「敵」ということです。この士師記においてギデオンにより打ち破られ、その後、聖書には歴史的記録としては現れない、ただ勝利の記念としてたびたび言及される、とのことでした。

 神さまは、敵をギデオンの手に渡されます。すなわちギデオンは敵に勝利します。その戦いに向かうギデオンに「あなたと一緒にいる兵は多すぎる」と言われました。もっと少ない兵力で戦いに向かいなさいといわれるのです。その理由は「イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから」とのこと。この戦いの目的は、神を神としないミディアンという敵に対する神の国イスラエルの勝利ですが、もう一つ大切な目的として、イスラエルのへりくだり、神さまがまことの神さまであることをイスラエルが学ぶ、ということでした。
 そこで兵隊の数を減らす作業が行われました。まず「だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデ山から離れよ」と神さまはいわれました。戦意の欠ける者は戦いの群れから外されました。つづいて、水を飲む姿によって振り分けられ、300人が選ばれました。あきらかに少ない兵隊の数です。人間的に見れば、勝機はありません。しかし、だからこそ、神さまはこの戦いに勝利してくださいました。イスラエルの勝利は神さまによってもたらされるのです。
 今日の神の国である教会も、その信仰の戦いには、神さまによって勝利がもたらされます。教会が自分の手で、自分たちの知恵や力によって勝利した、と言わないため。そうして神さまに向かって誇らないために。信仰の戦いは、人間的に見て勝機がないと見えるところにも、勝利がある。あるいは人間的に見て勝機がないところにこそ、神さまの働きが豊かになされ勝利がもたらされる、ということなのです。

「6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
10 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。
11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。
・・・
16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。
18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」
(第二コリント4・6~18)

 さて、300人の兵の選ばれ方ですが、まず恐れおののく者が外されたというのは、理解できます。しかし水の飲み方によって選び分けられるというのはちょっとしっくりこないのですが・・・。口を直接つけるところに兵としての資質が見られる、ひざをつく者はそれが欠けている、ということかもしれません。
 しかし、神さまは

「わたしがあなたに、『この者はあなたと一緒に行くべきである』と言うなら、その者はあなたと一緒に行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたと一緒に行くべきではない』と言うなら、だれも行ってはならない。」

 といわれたのですから、人間的な理由は一切なく、ただひたすら神さまのみこころの中に選びがなされたと理解すべきかもしれません。つまり、もし舌で水をなめた者ではなく、膝をついて水を飲んだ者の数が300人だったなら、そちらを選ばれたのかもしれない、との想像もゆるされるのではないか。神さまはただ、300人にしたかった、ということではないか、ということです。
 選びということに神さまの秘密、神秘がある。だからこそ、謙遜が生まれる、ということではないかと思います。