神の御子に対する信仰

静まりの時 2022年9月26日(月)
ガラテヤ2・15~21

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」
(ガラテヤ2・20、新改訳2017)

 律法の行いによってではなく、イエスさまへの信仰によって、私たちは生きる者となりました。
 律法の行いによって救われる。それは、自分が神のようになって、律法が行なえているかどうかを判断する生き方となります。人間は罪びとですから、律法を完全に行うことができません。ですからいつも罪にさいなまれるか、逆に開き直るかの人生となってしまいます。また、容易に他者に対するさばきの目を持つことになります。自分はちゃんと律法を守れているだろうか、と戦々恐々とする、また隣人に対して、あれはだめだこいつはちゃんとしていないと、さばきの目を向ける。そんな人生が救われた人生とはいえないでしょう。
 イエスさまが十字架に架かり命をささげてくださったこと。そうして三日ののちに復活されたこと。この神さまのあがないのみわざによって、私たち罪びとに救いの道が開かれました。このイエスさまへの信仰、信頼によって、私たちは救われるのです。そうして救われた人生は、イエスさまにおたよりして生きていく人生となりました。もはや私が生きているというよりも、イエスさまご自身が私の内に生きていてくださる、そのことを喜ぶ人生へと変えられたのです。

 「今私が肉において生きているいのち」。こうして人間として弱さや足りなさを持ちながら生きているいのちが、無意味、無価値になったのではありません。むしろその弱さや足りなさを持ちながら生きるいのちの、そのただ中にイエスさまが生きていてくださる、ことを知らされたのです。ですから弱さや足りなさをも、喜んで生きる者となりました。

 さて、このガラテヤ2章15節以降の訳は、共同訳2018において大きく変わりました。上記の20節を共同訳2018で見てみましょう。

「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。」(ガラテヤ5・20、共同訳2018)

 新改訳2017で「神の御子に対する信仰」と訳された言葉が、共同訳2018では「神の子の真実」と訳されました。どのような印象を持たれるでしょうか。

 まず、新改訳2017で「信仰」と訳された言葉が、共同訳2018では「真実」と訳されています。原文の単語は両方の意味を持っている言葉ですが、信仰を持つということは、真実をかたむけるということとでもありますから、どちらの意味も大切です。私たちはイエスさまに対する信仰をもっていますが、それはイエスさまに対して真実をもって生きる、ということでもあるのです。

 さて、もう一つ心に留まる点は、この「信仰」「真実」の主語、あるいは行為者はいったい誰なのだろうか、ということでしょう。
 新改訳2017の「神の御子に対する信仰」ですが、この「信仰」の主語は「私」である、私が「信仰」をかたむける、と考えることができると思います。イエスさまに対する「私の」信仰、ということです。今までのほとんどの聖書は、この訳し方に従っていると思います。
 それに対して、共同訳2018では、「神の子の真実」ですから、この「真実」の主語は「神の御子」です。神さまの御子、すなわちイエスさまが主語であり、行為者である、との印象を受けることになります。

 この共同訳2018に従って考えると、イエスさまを信じる信仰によって私たちは救われ、今こうして生きているのですが、その信仰自体も、イエスさまのご真実によるものである、ということになります。
 信仰を自分の行為と考えているのでは、結局自分の握力によって神さまをつかんでいるという印象がぬぐい切れません。しかしこの共同訳2018の訳に従って考えると、その信仰自体も、神さまの御手の中にしっかりと握りしめられていると理解できます。
 信仰によって救われる、ということは、プロテスタント教会が大切に主張したことの一つでした。しかしそれはいつの間にか、人間による「信仰」という「行い」によって救われるとの誤解を生み出してしまってはいないだろうか・・・。
 信仰そのものもイエスさまの御手の中にあることを、ひたすら感謝することが健康な信仰に生きる道なのです。そのためには「私」という人間は徹底的に罪びとであることを学ばなければなりません。悔い改めとは、その罪びとである自分を土台として人生を築くことから解放されるということなのです。キリスト教信仰に生きるということは、イエスさまのご真実によって生かされていること、イエスさまが私たちを信じてくださる、イエスさまの信仰、によって今生かされていること、そのことを喜ぶことなのです。