静まりの時 2022年9月10日(土)
エペソ4・7~16
「7 しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。
8 そのため、こう言われています。
『彼はいと高き所に上ったとき、
捕虜を連れて行き、
人々に贈り物を与えられた。』
9 『上った』ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。
10 この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。
11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
14 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。
16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」
(エペソ4・7~16、新改訳2017)
罪赦された罪びとでしかない者に、神さまは「恵み」を与えてくださいました。恵みによって与えられたものですからそれは「贈り物」です。それは具体的にはある人たちを「使徒」「預言者」「伝道者」「牧師」「教師」として立てられた、ということです。ここには長老や執事、という役割が記されていませんが、ここに記されている役割はおもにみことばに仕える人たち、ということでしょう。先の三つ「使徒」「預言者」「伝道者」は個々の教会を越えて奉仕をする人たち、後の二つ「牧師」「教師」は個々の教会の中で奉仕する人たちということでしょうか。いずれもそれぞれが生まれ持った能力によって、ということではなく、神さまから与えられた賜物があり、それによって奉仕する人たちということです。ここにみことばが語られることにおける「秩序」が語られています。
聖霊に満たされた豊かな働きは、つねに秩序の中に行われていきます。教会と言っても、罪赦された罪びとの集まりですから、秩序がなくなると、途端に罪の部分が出てきます。教えの風に吹き回されたり、もてあそばれたりすることになります。
信仰生活は、真理が語られ、キリストに向かって成長することですが、それは「愛をもって」語られることによって成長するのです。また信仰生活は、「からだ全体」が成長すること、建て上げられることに直結しています。それも「愛のうちに」建てられるのです。
一人ひとりの信仰の成長と、教会が建て上げられること。この二つは一つのことです。一人ひとりの信仰の成長は、教会が建て上げられることと結びついているのです。また教会が成長することは、一人ひとりの信仰の成長に結びついているのです。
「愛をもって」「愛のうちに」。この場合の愛には三つの側面があります。一つは神さまの私たちに対する愛、もう一つは私たちの神さまに向かっての愛、そして三つめは私たちの互いの間にある愛。この三つの愛が一つになり、あるいはそれぞれに結びつきながらの愛をもって、愛のうちに、教会は建て上げられていきます。