静まりの時 2022年9月12日(月)
ヘブル13・1~6
「1 兄弟愛をいつも持っていなさい。
2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。
3 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。
4 結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。
5 金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。
6 ですから、私たちは確信をもって言います。
『主は私の助け手。私は恐れない。
人が私に何ができるだろうか。』」
(ヘブル13・1~6、新改訳2017)
ギリシャ語で愛のことを「アガペー」というと学びますが、ほかにも聖書に出てくるものとしてはフィレオ―という言葉があります。ちなみにエロスということばは聖書には出てこないようです。このフィレオ―と、兄弟ということばのアデルフォスということばが結びついて、フィラデルフィア、兄弟愛ということばができています。当時も小アジアにこのことばをつけた町がありました(黙示1・11)。現在もいくつかの国にこの名前を持った町があるようです。兄弟愛ということばは、今も昔も大切にされ愛されてきたようです。
兄弟、ということばは教会の中でのお互いを呼び合う名称で、決して血がつながっている者同士ということではありません。イエスさまを信じたお互いが神さまの家族である、ということを大切にしたのです。そのお互いの間に、愛を持ち続けなさい、とヘブル書は語ります。教会の交わりの中において、お互いに愛に生きなさい、生き続けなさいとすすめます。愛というのは感情ではなく意志ですから、愛を結ぶ選択をしなさい。たとえ感情がどうであれ、そのように生き続けよ、というのです。
これに続いて、旅人、牢につながれている人びと、結婚、すなわち夫婦間、そして金銭、それらへの愛に生きよ、と勧められています。
旅人。今日でいう旅行者ということではなく、さまざまな理由で宿を持たない(持てない)人びとのことでしょう。イエスさまがお生まれになる時に、マリアとヨセフには宿がありませんでした。人の子には枕するところもない(マタイ8・20)とイエスさまは言われました。そしてキリスト者は地上では旅人であるとヘブル書は語ります(11・13)。誰かの助けが必要な人びとと考えてもよいと思います。私たちはみな誰かの助けがなければ生きることができないのです。
牢につながれている人びと。当時牢につながれている人びとのなかには、今日でいう政治犯も多かったでしょう。冤罪も今日のそれとは比べ物にならないほどあったことでしょう。もちろんそれだけではありません。様々な犯罪を犯した人たちもいます。犯罪を犯すに至った人生の背景にはさまざまなことがあったでしょう。わずかの経験ですが拘置所や刑務所を訪ねたことがありますが、そこに至る道には同情の余地が全くないわけではありません。またその場所は人権感覚の豊かな時代を迎えているとはいえ、快適な環境とはいえないでしょう。
結婚。社会の平和を語る前に家庭の平和を語らなければなりませんが、家庭の基本は夫婦関係にあると言ってもよいでしょう。もちろんさまざまに複雑な家庭はあるので一概には言えないということも分かりますが、やはり家庭が始まる最小の単位は夫婦だと言えると思いますから、その始まりとなる結婚を聖なるものとすることは大切なことでしょう。今日、それは同性婚もふくめて神さまの御手の中にあることとして大切にしなければならないことでしょう。
金銭。金銭への愛がゆがむと、人生が破壊される方向に向かってしまうということもあるでしょう。執着することから自由になってこそ、真実の愛に生きることができる、ということは、金銭に対しても当てはまるのです。大切に扱うためにこそ、執着から離れる、ということです。
このような勧めに生きるために最も大切なことが、神さまへの信仰です。
主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。
ですから、私たちは確信をもって言います。
『主は私の助け手。私は恐れない。
人が私に何ができるだろうか。』」
神さまが今日も守って下さる。人が私に何をすることができるだろうか、人は私に手出しすることができないのだ、と思いを新たに今日を生きたいと思います。そうしてこそ、兄弟愛に生き、旅人、牢につながれている人びと、結婚、すなわち夫婦間において、そして金銭に対して、健やかな愛に生きることができるのです。
彼岸花が咲きはじめました。