自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい

静まりの時 2022年9月9日(金)
第一コリント10・23~31

「23 『すべてのことが許されている』と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。『すべてのことが許されている』と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。
24 だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。
25 市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
26 地とそこに満ちているものは、主のものだからです。
27 あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
28 しかし、だれかがあなたがたに『これは偶像に献げた肉です』と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。
29 良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。
30 もし私が感謝して食べるなら、どうして私が感謝する物のために悪く言われるのでしょうか。
31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」
(第一コリント10・23~31、新改訳2017)

 一般的に宗教にはなにかと戒律的なものがあるような気がします。やってはいけないこと、食べてはいけないもの、飲んではいけないもの、などなど。しかしイエスさまを信じる者には、そういった「してはいけないこと」がありません。すべては自由であるというのです。この自由はもともとあったのに気がつかなかったというものではなく、イエスさまの十字架と復活によるあがないのみわざによっていただいたものです。イエスさまの尊い犠牲によっていただいたありがたい自由なので、大切にします。キリスト者は何をしても自由なのです。
 しかし、ここからが大切です。すべてのことが自由である、許されているのだが、それが「益になるわけではない」、「人を育てるとはかぎらない」といい、「自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい」(24)とパウロは勧めました。

 コリント教会の具体的な問題としては、偶像にささげられた肉を、キリスト者は食べてもよいのか、食べてはいけないのか、ということがあったようです。市場に流通している肉の多くは、異教の神殿にささげられた動物の肉でした。ある人は、偶像にささげられたものなど食べてはいけない、と主張します。ある人は、そんなものはどうでも良いことだ、イエスさまを信じて私たちは自由になったのだ、と言います。

 パウロは、もし未信者の家庭に招かれたときに、その食卓に出されたものは、「良心の問題を問うことをせず」食べよ、と言いました。ごちゃごちゃ考えないで、感謝していただけばそれでよい、というのです。なぜなら「地とそこに満ちているものは、主のものだからです」。神さまが創造されたものでしょう、というのです。
 しかし、その食卓の席で、誰かが「これは偶像に献げた肉ですよ」と、「あなたがた」すなわち、キリスト者に向かって言うならば、そういった人たちの「良心」のために、食べてはいけないといいます。その人たちがどのような気持ちで、どのような意図をもってそう語ったのかはわかりませんが、とにかく配慮せよ、ということでしょう。

 自分の良心、判断基準は、他者からの影響を受けることはあり得ない、しかし、あるいはだからこそ、他者のために、他者の良心のために、自分の自由を捨てなさい、というのでしょう。キリスト者の自由というのは、他の人のために、その自由を捨てることができる自由なのです。ややこしいことですが、この自由こそ本当の自由です。私は自由なのだ、といわゆる自由であることに固執しているとすれば、それは縛られていることであって、本当の自由ではないですね。本当の自由が分かるか分からないかが信仰生活、教会生活、さらには人生の祝福の秘訣であると思います。

 キリスト者は「食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すために」生きる者となりました。それは、何をするのも自由なのですが、その自由をつねに、他者の益になること、他者を育てることのために用いなさい、ということなのです。

 この「人を育てる」(23)という言葉は、少し意訳です。徳を高めると訳されている聖書もありますが、共同訳では「造り上げる」と訳されています。原文では、家を建てる、という言葉が使われています。昨日ローマ14章で19節でも考えた言葉です。文脈から人を建て上げる、ということだから、育てるとか、徳を高めると訳すことになっています。
 しかしある先生は、これは人のことではなく、教会のことである、と言われていました。イエスさまを信じたから私たちは自由なのだ、と言って自分たちの好き勝手なことをやりたい放題しては、教会が建て上げられない、と語っているということです。自分がやろうとしていることは、果たして教会を建て上げることになるのだろうか、と考えるのです。そうしてそれが教会を建て上げることであればやろうとする、しかしそれがいくら自分がやりたくって仕方がないことでも、教会を建て上げることにならないならば、やらない、ということ。救われて教会生活を送る、ということは、その教会生活の中で、全き自由をいただいた者として、自分の自由を捨てることを学ぶところである、というのです。
 教会では、神さまに示された、とか、導かれたという言い方で、自らの行動の理由付けをする場合がありますが、そこでも問われなければならないのは、果たしてそれが教会を建て上げることになるだろうか、ということですね。神さまは無秩序なお方ではなく、秩序と調和であるお方ですから。本当に神さまに導かれてのことであれば、それは教会を建て上げることに実を結ぶはずである、ということでしょう。