義が平和をつくり出し、義がとこしえの平穏と安心をもたらすとき

静まりの時 2022年8月12日(金)
イザヤ32・15~20

「義が平和をつくり出し、義がとこしえの平穏と安心をもたらすとき、私の民は、平和な住まい、安全な家、安らかな憩いの場に住む。」
(イザヤ32・17,18、新改訳2017)

 共同訳2018では、

「正義が造り出すものは平和。正義が生み出すものは とこしえに至る静けさと信頼である。私の民は、平和な住まい、安全な家 心配の要らない安らぎの場に住む。」
(イザヤ32・17,18、共同訳2018)

 まず、義、正義は、平和をつくり出す、生み出す、といいます。不正はたたかいを生み出すということでしょう。
 しかし多くの場合、正義を追い求めるところで、戦いが起こるというのが、人間の歴史だったのではないだろうか、と思います。大義無き戦争、と言われた戦争でも、何らかの正義をかざして戦いに向かったのではないでしょうか。そうでなければ戦いなどということはできないと思います。
 私たちの小さな生活の中でも、様々な怒り、戦いが起こりるところには、それを生み出す義、正義があります。少し前ですが、図書館で一所懸命窓口の方に怒りをぶつけていた人がいました。詳細は知るべくもないのですが、はたから見ていて窓口の方が気の毒になりました。そこにもそれ相応の正義があったのでしょう。正義を守らなければならないという思いがあったのでしょう。

 しかし聖書は、義、正義は平和をつくり出す、平穏と安心をもたらすのだ、と語ります。そうするとこの義、正義は、私たちが日ごろ守ろうとしているものとは、少し違うような気がしてきます。これを神さまが与えてくださる正義、と考えてみたいと思います。それに対して上記で考えた、怒りや戦いを生み出す正義を、私たちが造ろうとする正義、と考えてみたいと思います。

 このイザヤ書の個所は「しかし、ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり・・・」という言葉をもってこの段落が始まっています。「いと高き所から私たちに霊が注がれ」、共同訳2018では、「しかし、ついに、高き所から 霊が私たちの上に注がれる」。

 神さまの霊が注がれる、そこに神さまの正義が行なわれる、その神さまの正義は、平和を生み出す。その平和とは、とこしえの平穏と安心、とこしえに至る静けさと信頼である、と。
 私たちがいたずらに自分の正義を守ろうとすれば、どうしても戦いが起こるのです。しかし神さまの霊を待ち望み、神さまのお働きの中に身を委ねていくところには、神さまの正義が為される、そこにこそ平和が生まれる、というのです。
 おおよそ正義をなそうとして、すべてを自分の思い通りにでコントロールしようとすれば、戦いは起こり争いは止みません。しかし神さまの正義を待ち望みつつ、神さまにすべてを委ねるところには、必ず平和、そして静けさと信頼が生まれるのです。神さまの正義か、それとも自分の正義か、私はどちらを追い求めているだろうか、と考えさせられます。