静まりの時 2022年8月11日(木)
ヨハネ14・25~31
「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」
(ヨハネ14・27、新改訳2017)
イエスさまは、最後の晩餐となる二階座敷において弟子たちに向かってお話しをされました(ヨハネ14章から16章)。そののち祈りがささげられ(17章)、十字架に向かって出発されました(18章)。
この最後に語られた言葉の中で、イエスさまは弟子たちに平安を残す、平和を残すと語られました。そのように語られなければならない弟子たちがいたということでしょう。平安がない、平和がない、心が不安に満ちている、おびえている、心が騒いでいる、ひるみそうになっている、という弟子たちがそこにいたのです。
イエスさまはそのような弟子たちに向かって、平安を残す、とお約束してくださいました。この約束は今を生きる私たちすべてに語られたことばでもあります。この世にあっては苦しみ、艱難、私たちを怯えさせることがたくさんあるのです。そのような中を私たちは生きていかなければなりません。しかしイエスさまが確かな平安を残してくださいました。この平安が与えられている限り私たちは勇気を失うことなく生きていくことができます。
イエスさまが与えてくださる平安ですが、イエスさまはここで、この世が与えるのと同じようには与えない、と言われました。私たちには平安が必要なのですが、私たちはどのような平安を期待しているでしょうか。どのような状態が、平安だ、と思っているでしょうか。私たちが期待し、また想像している平安と、イエスさまが与えようとしてくださる平安とは、どこか違うものがある、ということでしょう。いったいどのような違いがあるのでしょうか。
私たちが、世が与える平安、この世界が平安だという平安を求めている限り、平安を見出すことができない、ということでしょう。イエスさまが与えてくださる平安、イエスさまの与え方によってやって来る平安、を発見していかなければ、いつまでも平安を見出すことができない、平安を見出したことにならない、いつまでも心を騒がせ、いつまでもひるむ生き方になってしまうということでしょう。
弟子たちはこの先、イエスさまの残してくださった平安の中に生き続けたのでしょうか。イエスさまが十字架に架かられると、弟子たちは皆逃げて行きました。恐怖で部屋に閉じこもっていました。そこにイエスさまはやって来て、平安があるように、と語ってくださいました。依然、平安があるようにと語られなければならない状態にありました。しかし五旬節の日、ご聖霊さまが下り教会が生まれると、彼らは立ち上がり、イエスさまの復活の証人として世界に遣わされて行きました。その道は、ある時は迫害の中に、牢獄の中に、人びととの敵対の中に、ある時は教会の紛争の中に、進んでいきました。パウロなどは自分の生涯を振り返りつつ
「今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、中傷されては、優しいことばをかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。」(第一コリント4・11~13)
と語りました。この世の平安を求めるとすれば、パウロの生涯には、どこにもその平安はありません。平和はありません。しかし、このパウロは語りました。
「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8・35~39)
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4・6,7)
平安は、神さまが与えてくださるものであり、私たちの理解を超えたものである、思い煩いに苦しむ時も、その苦しみを神さまに打ち明けよう、感謝をもってささげる祈りと願いによって神さまに打ち明けよう、そうしてこそ与えられる平安がある、と語りました。平安が与えられるかどうかは、環境の問題ではなく、信仰の問題なのです。
最近読んだ小説の中で心に留まった言葉がありました。ある二代目社長が、人はいいのですが、たたき上げの先代に比べて決断力に欠けるところがあり、自分自身もそれに悩んでいる場面で、主人公から言われる言葉です。「あなたにないのは自信ではなく覚悟です」。人間みな自信などない、自信はないけれども、人生を生きていかなければならない、そのために必要なのは、覚悟だ、どのような道に歩もうともそれを引き受けていく覚悟が必要なのだ、と語る言葉が心に留まりました。
自信はないけれども覚悟をした、それがこの世界に遣わされていった弟子たちだったのではないだろうか、と思いました。この世の考えるような平安はないのです。自分たちの状況を見れば平安を見出せるような自信はないのです。しかしイエスさまがともにいてくださる。そのイエスさまは、平安を与えてくださるお方だ。たとえこの世が与える平安を見出すことができなくても、そこには必ずイエスさまが与えてくださる平安がある、イエスさまだけが与えることのできる平安がある、私たちの理解を超えた神の平安がある、そのことを信じて、覚悟して世界に出発したのだと思います。信仰に生きることは、覚悟に生きることであり、そこにこの神さまの平安がある、ということでしょう。