静まりの時 2022年8月10日(水)
第一ペテロ3・8~12
「最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。
『いのちを愛し、幸せな日々を見ようと願う者は、舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する。』」(第一ペテロ3・8~12、新改訳2017)
「祝福を受け継ぐ」(9)、それは「幸せな日々を見る」(10)こと。毎日が、幸せな日々、原文では善い日々である。それを味わう。それが信仰者である。信仰の目的である、といいます。信仰に生きても毎日が不安と不幸せであれば、意味がありません。
しかしこれは毎日が自分の都合のよいように流れていく、ということではありません。自分にとって都合のよいことも、そうでないことも起こるのが人生ですが、どのような日も、善い日であった、ということができる、それがキリスト者である、というのです。
「この日は主が造られた、我らは喜ぼう」という賛美があります。神さまが造って下さった一日なので、どのようなことがあっても、その日を喜びましょう。
このような祝福の日々を生きるために
「みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい」(8)。
そして
「舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え」(10,11)。
と聖書は語ります。この個所の引用部分は詩篇34編からのものです。
祝福を受け継ぐ、幸せな日々を見るためには、自分自身がどのように生きるか、ということが大切である、と語ります。すこし大胆ないい方だと思いますが、幸せな日々であるかどうかは、自分自身の言動にかかっている、というのです。
みな自分勝手な思いをもち、同情せず、兄弟愛を示さず、心の優しい人とならない、そうして謙虚でない、というならば、幸せな日々を送ることができない、というのです。また悪口や欺きを語り、悪から離れず、戦いの道を求めるならば、幸せな日々はない、というのです。人生に幸せが見いだせない、というならば、いちど自分自身の生き方、言動を振り返ってみればよい、ということでしょう。
「一つ思いになり」
同じ信仰告白に生きる、神さまに向かって一つとなる。
「同情し合い」
一緒に苦しむ。
「兄弟愛を示し」
ひとりの神さまを父と呼ぶ兄弟姉妹となったことからの愛。
「心の優しい人となり」
あわれみ深い。
「謙虚でありなさい」
自分の足りなさや弱さを知っている。
「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず」
一切の復讐をしない。
「逆に祝福しなさい」
復讐しないだけではなく、愛をもって応えていく。
「舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな」
心の中ももちろんですが、まず自分のくちびるを制御する。
「悪を離れて善を行い」
そしてくちびるを制御するだけでなく、生き方そのものを制御する。
「平和を求め、それを追え」
平和を求める、それは平安を求めること。神さまとの関係において、平和を求め、隣人との関係において平和を希求する。
このような生き方、人生の選択が、私たちの人生の日々を幸せなものとするのです。
しかしそのような生き方は単なる無抵抗な生き方を生み出すのではないかとの思いが心によぎります。もちろん聖書は無抵抗な生き方を私たちに勧めているのではありません。
このような信仰の生き方が可能となるのは、
「主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する」(12)ことを信じているからです。