静まりの時 2022年8月9日(火)
ピリピ4・1~9
「・・・そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
・・・そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」
(ピリピ4・7、9、新改訳2017)
「平安」(7)、「平和」(9)は、同じ単語です。同じ単語を日本語に翻訳する時に、あるところでは平安、あるところでは平和と訳されています。平安というと、心の中のこと、平和というと世界のことのように感じます。言い方を変えると、平安は自分の心の中に戦争がない状態。平和というと自分と外との間に戦争がない状態、といった感じでしょうか。内なる戦いと外なる戦い。いずれにも戦いがない状態がこの平安、平和、という言葉から感じることです。
しかし私たちの人生は、いずれにもさまざまな戦いを経験します。私たちの周りで起こるさまざまな戦いが平和を乱します。またそのことから心が騒ぎ平安を失います。あるいは心の平安を失ったことが原因で、周りにさまざまな戦いを起こしてしまうということもあります。逆に、さまざまな戦いの中にありながら、平和のない状態の中にありながら、心は平安に満たされているということもあります。平安と平和。密接に結びついているとともに、その結びつきは単純ではありません。
「すべての理解を超えた神の平安」によって、私たちの心と思いがイエスさまにあって守られるために、「喜び」(4)、「寛容」(5)、「祈り」(6)に生きるようにとの勧めがなされています。喜び、寛容、祈りが、平安に生きる道である、といいます。
また「平和の神がともにいてくださる」ためには、「わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを」行うことが勧められています。パウロから学び、受け、聞き、見たこととは、具体的にどのようなものであったのかは、この個所からは分かりにくいのですが、簡単に考えると、キリスト教の教え、ということでしょう。聖書はもちろんですが、教理、礼拝様式、愛のわざ、等々だと想像できます。そのような信仰生活が平和に生きる道を築くというのです。
平和に生きるための、キリスト教の教え。それらは連綿と続く「伝えられたもの」です。コリント手紙の中でパウロは次のように語っています。
「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、・・・」(第一コリント11・23)
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、・・・」(第一コリント15・3~)
ここでパウロは、コリント信徒たちに「伝える」ものは、自分自身も「伝えられた」ものである、また聖餐式においては、それは「主から受けたこと」である、というのです。パウロがイエスさまから直接に聖餐を「受けた」はずはありません。それはおそらくペテロをはじめ12弟子たちから受けたものでしょう。しかしパウロにしてみれば、そのように12弟子から受けたものは、イエスさまから受けたものそのものである、と信じたのです。そしてそれを、今度はコリントの信徒たちに伝えました。この「伝えられたもの」を「伝える」ということが、連綿と続き、今日、私たちは信仰に生きる者とされています。
これがキリスト教が自然宗教ではなく啓示宗教であり歴史の宗教である所以です。
キリスト教は個人的な啓示、特殊啓示も許容します。つまり超自然的な語りの中で神さまにお出会いしたという証しも許容します。しかしそれはあくまで一般啓示があってのことです。一般啓示、すなわちだれにでも当てはまる神さまからの啓示、つまり聖書、十字架と復活、キリスト教の教え、礼拝、洗礼、聖餐、といったことごとは、すべての人に当てはまる啓示でしょう。それらを飛び越えて特殊な啓示が前面に出始めると、とたんに平和を失うのです。つまり教会の交わりの中に戦いが発生するのです。
平安、平和に生きるためには、喜び、寛容、祈り、そして伝えられた福音に生きること。そのような礼拝生活、教会生活に生きることによって、私たちは神の平安にいき、平和の神と共にいることができます。ともにいてくださる神さまを深く知ることができるのです。
受洗入会や転入会の時に、いくつかの信仰個条についての誓約をしますが、そのなかに「あなたは( )教団の教憲・教規、および( )教会の規則に従い、その純潔と一致と平和のためにつとめることを約束しますか」という生活があります。
教会員となる、ということはこの「純潔と一致と平和のためにつとめる」ことを約束することです。教会の平和のためにつとめること。それがともに教会生活を過ごすために大切なことであることを、教会はその歴史のなかで学んできました。そのために規則を守るということをしてきたのですが、では規則に書いていないことなら何をしてもよいのでしょうか。規則に書いていないからといって、自分がしようとしていることが、教会の兄弟姉妹の平安を失わせ、平和を破壊していくことが容易に想像できるのに、その願望を満たそうと自己主張をして行くということは、やはり平和のためにつとめていないということなのではないでしょうか。
人間はどこまでも罪びとなので、信仰者も、なにが平和のためにつとめることになるのかを、生涯学び続けていかなければならないと思います。今日は長崎に原爆が投下されて77年。数年前に青春18きっぷで長崎を訪ねたときのことを思いつつ、平和のために祈りたいと思います。先日は広島の式典の中で語られた言葉に感動したのですが、私はそのなかで知事さんの言葉にことさら深く考えさせられました。今日はどのような言葉が語られるでしょうか。