静まりの時 2022年8月8日(月)
イザヤ2・1~5
「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。
終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。多くの民族が来て言う。
『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。』
それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。」
(イザヤ2・1~5、新改訳2017)
「ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう」(5)。
主の光、神さまの光のうちを歩もう。いつわりの光ではなく、まことの神さまが照らしてくださる光の下に歩もう。まことの光である神さまご自身の中を歩もう。どう歩んでいいか分からなくなる暗闇の世界の中にあって、確かな道しるべである神さまに御頼りしながら歩んでいこう、と。イザヤは民に向かって呼びかけました。
キリスト者がそのように歩むことができるのは「終わりの日」を知らされているからです。
終わりの日。それは世界の完成の日であり、またまことのさばきが行われる日です。人生は正直者にたいしていつも正しい報いを与えるわけではありません。また逆に不正なものに罰を与えるわけでもありません。人生は不公平です。生まれながらにさまざまな違いを持って生きていかなければなりません。人生の途上でも、突然の病、自然災害、愛する者との別離、さまざまな不公平のなかに、私たちは生きていきます。その不公平に対して帳尻合わせの時がやって来る、きちんとしたさばき、判決がもたらされるときがやって来る、そのような終わりの日が来ることを、キリスト者は信じています。
その終わりの日には「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学」びません。戦いは止み、まことの平和がやって来るのです。
この平和は、神さまがまことの王となって世界の国々を治められることによって生まれる平和である、とイザヤは語ります。すべての国々、すべての民族が、主の教えを学び、主の教えに従うことによって生まれる平和です。一つの大きな権威のもとに、みなが安心して武装解除することのできる平和である、というのです。
キリスト者はこのような終わりの日、終末の時を知らされています。そしてその時を待ち望んでいます。
キリスト教信仰において、この終末論はとても重要なテーマです。神さまは義なるお方です。しかし人生は不義に満ちています。では神さまはおられないのか。おられるとすれば見過ごしておられるのか。あるいは神さまはほんとうは不正なお方なのか。この神義論は結論の見えない議論になりますが、それに対する答えが終末論なのだと思います。終末論がなくなると、神の義と人生の不義が解決できなくなってしまいます。
さてこのような確かな終末論を持っているキリスト者は、今のこの時をどのように歩むのでしょうか。確かな審判者が最終的におさばきになるということを信じ、その時を待ち望んでいる私たちは、今この時をどのように過ごすのでしょうか。
それは「さばかない」という生き方を選択することができる、ということではないでしょうか。人生には不公平があるだけでなく、矛盾があり、非論理的なこともあり、すぐにでも正さなければいられないことごとがあまりにも多いのです。それらを前にして、私たちはさばかなければいられません。しかしイエスさまを信じたその時から、最終的な審判者がおられることを知らされました。ですから、目の前の矛盾を矛盾として、非論理的なことをそのままに受けとめることができるものとなりました。
それではキリスト者は、悪に対しては目をつむり、不正を見てはそれを正そうとしないのか、と言いたくなりますが、教会史を振り返ると、先輩のキリスト者は、むしろ果敢に不正に対してはそれを正そうと努力し、悪に対しては闘いを挑みました。これは、最終的な審判者がおられるということが、人間に平安をもたらし、その平安が、むしろ目の曇らない臨戦態勢を生み出す、ということではないかと思っています。
短期決戦的な戦いを想定し、どうしても勝利しなければならないと焦っていては、目が曇り勝利することができません。しかし最終的に帳尻合わせをしてくださるお方が今ともにいてくださる、と信じているならば、たとえ目の前の戦いには敗れることがあったとしても、それはそれとして受け止め、また希望をもって立ち上がることができるのではないでしょうか。いたずらに不正を正さなければならない、矛盾を追求し、非論理的なことを正論に戻さなければならないという焦りから自由にされて、その上で整えられる臨戦態勢。これは勝つか負けるか分からないケンカに臨むガチガチに肩に力の入った状態から、勝利者キリストがともにいてくださることからの安心感によって自由にされた状態へ180度変えられることではないかと思います。
終末論は、今日を生きる私たちにまことの平安と自由を与えるのです。