静まりの時 2022年8月6日(土)
ルカ6・37~42
「さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。
・・・
あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。」
(ルカ6・37~42、新改訳2017)
マタイの福音書では山上の説教と呼ばれるところに記されている言葉が、ルカの福音書では平地の説教(ルカ6・17)と呼ばれるところに記されています。またマタイの福音書にくらべてルカの福音書では、すこしコンパクトに、かつちりばめられる形で記されています。しかし同時にマタイには記されていない言葉も書かれています。
このルカの福音書6・37からの「さばいてはいけません・・・」はマタイの福音書では7・1~5に記されていますが、単語のボリュームとしてはルカの福音書の方が多いですね。
罪を発見するとパリサイ人たちはさばきました。自分に対しても、他者に対してもさばきました。それが聖さを生み出す道であると信じて疑いませんでした。しかし結果は自分も生きることができなくなり、また他者も生かすことができなくなりました。イエスさまはそのようなパリサイ人たちに対して厳しく語られました。
「さばいていはいけません」。それが主にある者の生き方である、と語られました。だれもがこの誘惑にさらされています。他者を断罪したくなるのです。しかし私たちは、十字架の道を歩まれた主を見上げ、さばくことから自由にしていただきました。さばかない道をつねに選択します。
しかしそれは、罪を見過ごしにしなさい、と言われているのではありません。もし見過ごしにするということがキリスト者の生き方であるとすれば、そもそもイエスさまが十字架に架かられるということもなかったでしょう。私たちの罪は、神がいのちをもって贖わなければならないほどに深く大きいものなのです。
「まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。」(42)
私たちのうちに罪が放置されるならば、だれよりも不幸なのは私たち自身です。ですから罪は取り除かれなければなりません。しかし私たちの内には大きな罪(梁)があるので、兄弟の目のちり(他者の小さな罪)が「はっきり」見えないのです。はっきり見えなので、その罪を取り除こうとすれば、取り除かなくてもよいものを取り除こうとしてしまったり、健康な部分を傷つけてしまったりするのです。
ですからまず自分自身の大きな罪、原罪をしっかりと神さまの前に悔い改め、きよめていただくことが必要でしょう。きよめていただくということは、罪がなくなることではなく、自らが罪びとであることを見失わない、ということです。そうしていただいた者だけが、兄弟の小さな罪を取り除いてあげることができるとイエスさまは言われました。この「さばいてはいけない」の延長線上には、私たちの内から罪が取り除かれ、きよめられていく道があるのです。
罪を見ればさばかなければいられない、という人間の自然の感情に逆らって、さばかない、という道を選択することができる者だけが、他者の罪を取り除くことができる、というのです。自らの感情に逆らうことができないと、他者をいやすことはできないですね。私たちは、感情移入の激しい外科医に手術していただきたいとは思わないでしょう。
森本あんりの『不寛容論』のなかに「寛容」とは何かが論じられています。「寛容」が必要とされるところには、まず「寛容ではいられないこと」「寛容になれないこと」が存在している必要があります。
その「寛容ではいられないこと」をまえに、自分が寛容になれるように、その対象となるものを変化させ、加工し、あるいは破壊しようとすることは、寛容に生きようとすることではない。寛容というのは、そのままに受けとめることである、そのような「礼節」をいう、というのが結論であったように思います。礼節というと、すごく善なるものを感じますが、この本ではそのような善なるものではない、ということも書かれています。簡単にいうと「寛容ではいられないこと」をまえにしたときに、心の中では拒絶しているのですが、顔ではニコニコとしている、そうして距離を保っている、そのようないわゆる外ずらのよい、ある人からいえば裏表のある、偽善的な生き方と言われても仕方がない、そういう生き方のようです。この本によれば。
先月の三浦綾子カレンダーの言葉に、不機嫌を治せないのは大人のすることではない、つまり子どもなのだ、というような言葉が書かれていました。感情というのは、自分でもどうすることもできないものですが、それに振り回されているならば、他者の目のちりを取り除くことは不可能ですね(笑)。
先日の検査のためにお祈りありがとうございました。結果としては、可もなく不可もなく、といったところでしょうか。CTと心エコーによって、冠動脈の状況を調べていただいたのですが、当初予定されていた第3回目のカテーテル処置は、血管が細すぎるために現段階ではできないそうです。壊死した心筋がもとに戻ることはなく、依然低空飛行で生きることが続きそうです。