このとき、あなたがたは、主であるわたしが語ったことを知る

静まりの時 2022年8月5日(金)
エゼキエル17・19~24

「彼の軍隊の逃れた者もみな剣に倒れ、残された者も四方に散らされる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語ったことを知る。」
(エゼキエル17・21、新改訳2017)

 「このとき、あなたがたは、主であるわたしが語ったことを知る」。神さまが語られたことを、本当に神さまが語られたのだ、と人間が知るのはどのようなときであるのか。どのようなときに、人間は神さまの言葉を知ることができるのか。神さまが語られた言葉の本当の意味を知ることができるのか。・・・

 「このとき」。エゼキエル書が語るのは、バビロン捕囚の時。イスラエルが、神さまの誓いを蔑み、神さまの契約を破ってしまった。そのことから、神さまのさばきとして起こったバビロン捕囚。軍隊は壊滅し、敗走した兵士もことごとく倒れ、そうして国は破れ、民は異教の国バビロンの捕虜となる。そのような苦しみにあった時に、人間は神さまの言葉を知る、といいます。

 この時代にイスラエルが蔑んだ神さまの誓い、破った契約とはなんであったのか。この文脈だけではすこし分かりづらいのですが、この17章には以下のような言葉があります。

「『見よ。バビロンの王がエルサレムに来て、そこの王とその首長たちを捕らえ、バビロンの自分のところへ連れて行った。そして彼は王族の一人を選んで、その者と契約を結び、忠誠を誓わせた。彼はこの国のおもだった者たちも連れ去っていた。それは、この王国を低くして立ち上がれないようにし、その契約を守らせて存続させるためであった。ところが、彼はバビロンの王に反逆し、使者をエジプトに送り、馬と軍勢を得ようとした。そんなことをして、うまく行くだろうか。助かるだろうか。契約を破って助かるであろうか。わたしは生きている──神である主のことば──。彼は、自分を王位に就けた王との誓いを自ら蔑み、また、自ら契約を破ったので、その王の住む場所、バビロンで必ず死ぬ。」
(エゼキエル17・12~16)

 バビロン捕囚に向かう道には、いくつかの段階があり、まずゆるやかなバビロンの侵略が起こり始めたということです。あるときバビロンがやって来て、イスラエルの王や首長たちをバビロンに連れ去りました。バビロンは、連れてきた者の一人を選び、契約を結ばせバビロンに忠誠を誓わせ、イスラエルに帰しました。
 だいたい戦争を起こす目的、侵略する目的は、自分たちの国の植民地化であって、いたずらな破壊ではありません。破壊してしまってはその土地からの収穫がなくなってしまいます。イスラエルのリーダーたちが、バビロンに誓いをし契約をして、バビロンの国にみかじめ料をしっかり支払っていただけるならば、それが一番バビロンにとっては勝利なのです。
 しかしイスラエルのほうはプライドが許さないということでしょう。神の国であるイスラエルが、そんな憂き目にあってよいのか。それを看過するのか。となります。そこで神さまに御頼りすればいいのですが、こともあろうにエジプトに頼りました。かつて奴隷とされていた国、そこから神さまによって脱出させていただいた国エジプトに助けを求めたのです。大きな勢力に屈することに我慢ならず、別の組織暴力を利用しようとした、といったことでしょうか。結果は、エジプト軍は動かず、イスラエルはバビロンの圧倒的な軍事力をまえになすすべがありませんでした。国は滅びました。これはイスラエルの執行部の決定的な判断ミスである、ともいえるでしょう。プライドだけで戦争に向かうと視野が狭くなり正確な判断力を失うのです。

 ここで重要なことは、あのバビロンに連行されて誓わされた誓い、結ばされた屈辱的な契約を、19節で「彼が蔑んだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約」と神さまが言われていることです。
 いえいえ、あれは異教の国バビロンが無理やりに結ばせた契約ですから、重要視しなくていいのではないでしょうか、と言いたくなりますが、神さまはそうはおっしゃいませんでした。契約は契約である、誓いは誓いだ、と。どのような契約であれ、誓いであっても、それを自分の都合やプライドで反故にするならば、そのようなあやふやな生き方の報いを受けることになる、ということでしょう。
 ここでイスラエルにはへりくだることをお求めになっておられるのだと思います。異教の国バビロンの軍門に下るというプライドをへし折られるような経験をせよ、と言われているのだと思います。そうしてコテンパンにやられた時にこそ、「主であるわたしが語ったことを知る」のだ、と。
 私たちはどんなときに神さまの言葉が心に響いて来たでしょうか。