キリストこそ私たちの平和です

静まりの時 2022年8月13日(土)
エペソ2・14~22

「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
 また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。」
(エペソ2・14~18、新改訳2017)

 キリストこそ平和である。それはキリストが二つのものを一つにしてくださったからである。二つのものを隔てていた壁を取り除いてくださった。その壁とは敵意である。敵意がいままで二つのものを隔てていた。この敵意があったので、分離が起こっていた。キリストはその敵意を取り除いてくださった。キリストを信じる者は、この敵意を取り除かれてた者、敵意から自由にされた者である。キリストにあって新しいひとりの人として造り上げられた者である。いつも一つになって生きることができる。一つになって生きる道を希求する者である、というのでしょう。

 二つのもの、とはいったいなんでしょう。
 まず、異邦人とイスラエル人。この二つの間の溝は深く大きいものでした。双方に敵意がありました。差別する心に敵意が、差別される悲しみから敵意がありました。それらが取り除かれ、二つのものがひとつにされ、新しい人となった、といいます。もはや異邦人でもイスラエル人でもない。それがキリスト者である、ということでしょう。
 敵意によって隔てられていたのは、異邦人とイスラエル人だけではありません。自分自身のなかでの古い人と新しい人。私たちは、罪の中にしか生きることのできなかった古い人から、キリストを信じてい新しい人にされました。しかし依然古い人に生きてしまう場面はたくさんあります。古い人として生きてしまいつつ、しかし同時に新しい人としてキリストの喜ばれるように生きたいという自分もそこにいる。この古い人と新しい人の間に、壁がある。それは生きづらいことでしょう。その壁を取り除いて下さったのもキリストである。そうして古い自分を受け入れつつ、新しい自分を求めつつ、そこから本当に新しい人、まったく新しい人として生きる。それがキリストにあって生きることだというのでしょう。
 さらに神さまと私、という二つの間にあった隔ての壁が取り除かれるということ。罪の中にしか生きることのできなかった私は、神さまとの間に隔ての壁を持っていたのです。律法は、本来神さまに近づくためのものでしたが、その律法が、かえって神さまとの間に壁を造ることになりました。この壁は、また隣人との間に壁にもなりました。その律法によって造られた敵意をキリストは取り除いてくださいました。キリスト者は、神さまと一つになって生きる新しい人となったのです。
 御霊にあって生きる、ということは、このように二つものが一つにされて生きる、といことです。そうして「御父に近づく」、すなわち礼拝者となっていく、礼拝者とされていくのです。
 キリストが平和である、キリストこそ私たちの平和である、ということは、この世界にあるあらゆる二分する者の間にある敵意という壁をキリストは取り除いてくださるお方である、ということです。そしてそのためには、まず私たち自身がキリストの十字架によって神さまと和解をする。キリストの十字架によって神さまと和解をし、神さまを礼拝する者となるのです。
 そうしてこそ私たちは隣人と和解をする者とされる。隣人と和解する者とされてこそ、また世界の向かって平和の使者として遣わされていくのです。神さまとの和解、自分自身との和解、隣人や世界との和解、この三つは密接に結びついています。

 平和の使者として家庭に、地域社会に、職場に、学び舎に、そして世界に遣わされていきたいと思います。そのためには、まず自分自身としっかりと和解していなければなりません。自分の人生の、また自分の性質のよい面も悪い面も受け入れていなければなりません。自分の人生を振り返りつつ戦争状態のところがあれば、平和の使者にはなれません。かえって戦いの使者として出かけて行ってしまいます。
 自分の人生の過去の出来事と和解できていない、ということは、神さまと和解できていない、ということです。その和解は自分ではできません。神さまにしかできないのです。キリストの十字架を見上げ悔い改め、神さまの方向へと向きを変えられ、神さまから和解をいただかなければなりません。

 まもなく終戦の日(敗戦の日)を迎えます。このところ半藤一利の『戦争というもの』を読んでいるのですが、いたずらにあおられた敵意によって戦争に突入していったことが、分かりやすい言葉でつづられています。敵意は、怒りを生み出し、怒りは目を見えなくさせ、結果多くの悲劇を生み出し、多くの命を奪いました。繰り返してはいけないことであるとあらためて思いました。私たちキリスト者はどのようなときも平和の使者として遣わされる者であることを心したいと思います。もし私たちキリスト者が平和の使者を辞めるならば、この世界には神さまとの和解をいただいているまことの平和の使者は存在しなくなるのです。