静まりの時 2022年8月3日(水)
ミカ6・1~5
「1 さあ、主の言われることを聞け。
立ち上がれ。山々に訴えよ。
もろもろの丘にあなたの声を聞かせよ。
2 山々よ、聞け。主の訴えを。
変わることのない地の基よ。
主がご自分の民を訴え、イスラエルと論争される。
・・・
6 何をもって、私は主の前に進み行き、
いと高き神の前にひれ伏そうか。
全焼のささげ物、一歳の子牛をもって
御前に進み行くべきだろうか。
7 主は幾千の雄羊、
幾万の油を喜ばれるだろうか。
私の背きのために、私の長子を、
私のたましいの罪のために、
胎の実を献げるべきだろうか。
8 主はあなたに告げられた。
人よ、何が良いことなのか、
主があなたに何を求めておられるのかを。
それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、
へりくだって、
あなたの神とともに歩むことではないか。」
(ミカ6・1~2、6~8、新改訳2017)
預言者ミカは、イザヤとほぼ同時代の預言者とのこと。大国アッシリアの侵入によりイスラエルが崩壊し、エルサレムが陥落していく時代です。ミカは、神の国のイスラエルの滅びが、神さまのさばきによるものであると語りました。政治的、倫理的、宗教的な堕落に対する神さまのさばきであると語ったのです。
このミカ書6章6~8節には、神さまがお求めになっておられるのは、どのような宗教的犠牲よりも、「公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むこと」である、と語られています。キリスト者のこの世での旗印は、公正、誠実、謙遜である、それが神さまとともに歩むことである、と聖書は語ります。
この1~2節には、神さまがご自身がご自分の民イスラエルを訴える、と語られています。
神さまは人間に向き合い、その生きざまを告訴されるお方です。神さまとはそういう存在なのです。公正、誠実、謙遜に歩むことが期待されているにも関わらず、その逆のような歩みを続けるイスラエルに対して、神さまはその罪を追及されます。偶像の神にはそのようなことは一切ありません。人間の言いなりです。
私たちはこのような、私を告訴する神、とともに歩んでいるでしょうか。それとも神さまを私の言いなりの神としているでしょうか。
聖書の神さまが、このように私たちを告訴されるのは、神さまご自身が義なるお方であると同時に私たちを愛しておられるからです。私たちは、この神さまの前に罪びとでしかありません。罪びとは、ただ公正、誠実を愛し、へりくだるしかないのです。そうしてこの神さまとともに歩むことを喜びます。
私たちは生涯罪びととしてこの地上を歩みます。いつも悔い改めを心に、神さまとともに歩むことを喜びましょう。
アビラのテレジアが、真理と謙遜とは同じことである、というようなことを語っているといく度か書いたことがあるかと思います。キリスト者のこの世での旗印は謙遜であると先ほども書きました。謙遜であるかどうかが、キリスト者であるかどうか、ということなのだ、と。
この謙遜、へりくだり、というのは分かったようで分かりにくいもののように思います。たとえばマタイ11・29でイエスさまが「わたしは心が柔和でへりくだっているから」とご自身のことを語っておられますが、私たちは、これがイエスさまだからすんなりと読んでいるのだと思います。もし誰かが「私は心が柔和でへりくだっているのですよ」と語ったとすれば、聞いた人はその人にどんな気持ちを持つでしょう。きっと多くの人は、ああこの人は謙遜ではないな、と感じるのではないでしょうか。謙遜という言葉を自分に対して使う場合、自分を戒める、ということにおいては成り立ちやすいのです。たとえば、謙遜であらねばならない、私は謙遜ではない、とか。これに対して、自分の特色を語ろうとすることには意味をなさない、あるいは誤解を生む、ということでしょう。もし自分に対して使われる場面があるとすれば、それは他者から語られる言葉によってはじめて成り立つ単語である、ということでしょう。あなたは謙遜ですね、とか。それを聞いて、ええそうなんですよ、と答えたとたん謙遜でないことが明らかになります(笑)。そこで、いえいえそんなことありません、と答えることで謙遜を少し明らかにすることができる。つまり謙遜は他者から語られ、それを柔らかく否定することによってのみ成り立つことである、ということです。面白いですね。
これは実は、謙遜にかぎらず個人の能力ということについても同様のことが言えます。教会生活では、賜物、という言葉が聞かれるようになります。個人の能力を、神さまから与えられたもの、賜ったものという、謙遜の心をもって語る言葉です。
ですから賜物という言葉が使われる場合、そこには謙遜が語られているということもできるでしょう。
そこで、たとえば私が「私には説教の賜物が与えられているのですよ」と語ったとします(私はまったくそうではないと自負しているつもりですが)。皆さんはどのように聞かれますか。そうですね、と言って下さる優しい方もおられるかもしれませんが、多くの場合は、「ほんまか、いつも何ゆうてるか、わからへんで~」とか「それ、自分で言うことか」とか、少なからず心に抱かれるのではないでしょうか。
そうなんです。謙遜と同じように、謙遜の意味を含めている賜物という言葉を使う時も、それは他者から言われることによって成り立つ言葉であって、自分で言う言葉ではないのです。それは聖書の中で賜物という言葉が使われているところを読めばよく分かります。
にもかかわらず、自分で、自分にはこのような賜物が与えられています、という言葉が使われるとすれば、そこには、また別の何かかが語られていることになります。
謙遜ということは、なかなか複雑なものです。多くの徳目は「手に入れる」という目標を持ちますが、この謙遜という徳目だけは、手からはなす、という目標の中にあるのです。