静まりの時 2022年8月2日(火)
ヨブ7・1~8
「私の日々は機の杼よりも速く、
望みのないままに終わる。
心に留めてください。
私のいのちが息にすぎないことを。
私の目は、再び幸いを見ることはありません。」
(ヨブ7・6,7、新改訳2017)
機(はた)の杼(ひ)。なかなか見かけないものですが、機織り機の道具の一つですね。経糸(たていと)のあいだに緯糸(よこいと)を通す道具で、英語ではシャトル。ヨブは自分の人生は機械の歯車と同じようなものだ、と言っているのだと思います。その苦しみの中でヨブは、誰に祈るでもない祈りをささげています。「心に留めてください」と。それはもちろん神さまにささげられている祈りのはずです。しかし聖書はただ「心に留めてください」と記します。
私たちはいつも神さまに向かって祈ることができます。しかし神さまが見えないときもやってくるでしょう。そうしてつぶやきのような、独り言のような言葉を語ることもあるでしょう。だれに語るでもない言葉。しかしそれも祈りとして神さまは聞いていてくださるのだと思います。
さて、
3章にてヨブの独白が終わると、ヨブの窮状を聞きつけた三人の友人たち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルと、ヨブとの対話が始まります。この対話は一応3ラウンド行われることになります(一応というのは最後のナアマ人ツォファルの弁論は無言となっています)。まずテマン人エリファズが話し始めました(4、5章)。
「さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。」(4・7)
「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。」(4・17)
「ああ、幸いなことよ、神が叱責するその人は。だから、全能者の訓戒を拒んではならない。神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが、御手で癒やしてくださるからだ。」(5・17,18)
「神さまは善なる者には善を報い、悪なる者には悪を報われる正しいお方だ、ヨブよ、罪のない人間はいない、よく考えてみよ、そのような苦しみの中にあるのはあなたの中に罪があるからではないか。神さまが罰を与えてくださるのは、幸いなことなのだ、神さまはまた必ずいやしてくださる。さあ悔い改めて神さまの訓戒を受け入れよ」と。
まったくの正論ですね。
それに対するヨブの答えが6,7章です。
このエリファズが語る宗教的正論がヨブの心には届きません。宗教的正論が、いかに苦しみの中にある者の役に立たないかを、ヨブ記は明らかにしています。
「味のない物は塩なしに食べられるだろうか。卵の白身に味があるだろうか。私の喉はそれを受けつけない。それらは私には腐った食物のようだ。」(6・6,7)
「エリファズよ、おまえの語る言葉の一つひとつは、おまえは良かれと思って話してくれているようだが、自分のとっては、味のない、むしろ腐った食物のようだ」と。ヨブの提起する問題は二つです。ひとつは「なぜ人間は神にとって大切なのか、なぜ人間の罪と弱さとが神の関心の主題になるのか?」(ロバート・ゴルディス、『ヨブ記――神と人間の書』、199頁)、もう一つは「人間は自分の運命の支配者ではないというのに、なぜ彼は、罪人にもせよ、苦しまされるのか?」(同上)。ラビ・アキバの言葉として「一切は予知されている。けれども人間には自由意志が与えられている」(同上)、またサムエル・ジョンソン博士の言葉として「自由意志に関しては、一切の哲学はそれに反対であり、一切の経験はそれに賛成である」(同上)。
「人とは何ものなのでしょう。
あなたがこれを尊び、これに心を留められるとは。
朝ごとにこれを訪れ、
その都度これを試されるとは。
いつまで
私から目をそらしてくださらないのですか。
唾を飲み込む間も、
私を放っておいてくださらないのですか。
私が罪ある者だとしても、
人を見張るあなたに、私は何ができるでしょう。
どうしてあなたは、私を標的とされるのですか。
私は、自らを重荷としなければならないのですか。
どうして、あなたは私の背きを赦さず、
私の咎を取り去ってくださらないのですか。」
(7・17~21)
これは詩篇8編と重なります。
「人とは何ものなのでしょう。
あなたが心に留められるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。
あなたが顧みてくださるとは。
あなたは人を御使いより
わずかに欠けがあるものとし
これに栄光と誉れの冠を
かぶらせてくださいました。
あなたの御手のわざを人に治めさせ
万物を彼の足の下に置かれました。」
(詩篇8・4~6)
人とは何者なのか。その問いに、詩篇の方は、とるに足りないもののようだけれども「栄光と誉れの冠」をかぶらせてくださった、と神さまをほめたたえています。一方ヨブ記は、同じ問いに、罪びとに対する神さまの厳しい視線を嘆いています。もう放っておていください、と苦しみを訴えています。
私たちはこの二つの答えの間を生きているように思います。そしてその二つを一つにしてくださったのがイエスさまの十字架ではないかと思いました。私たちは、神さまの罪の追及の厳しさを学びます。そして同時に神さまの愛を学びます。