静まりの時 2022年8月1日(月)
アモス8・9~12
「見よ、その時代が来る。
──神である主のことば──
そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。
パンに飢えるのではない。
水に渇くのでもない。
実に、主のことばを聞くことの飢饉である。
彼らは海から海へと、北から東へとさまよい歩く。
主のことばを探し求めて行き巡る。
しかし、それを見出すことはない。」
(アモス8・11,12、新改訳2017)
紀元前7百年代、北王国イスラエルの国は王ヤロブアムの支配のもと繁栄の中にあります。人びとはその豊かさを享受しています。このまま永遠にこの幸せは続くように思われます。だれも世界に滅びがやって来るなど想像できません。そのような中に、預言者として召されたテコアの牧者アモスは語ります。「わたしの民イスラエルに終わりがきた」(2)。
時代の表層に目を奪われれず、その深層にある問題を見ぬくように、そしてその問題を告発するようにと神さまに召された者。それが預言者です。預言者は時代に流されず、世界の聖さのために、その身を献げるように神さまに召されました。人びとが神さまのみこころの中に生きるように、そして真の平安の中に生きるようにと誰よりも願い祈っています。それが預言者なのです。今日、日本の国においては特に少数派であるキリスト者には、預言者としての役割が鮮明になっているのだと思います。
この預言者の言葉に人びとはどのような反応をしたのでしょう。また私たちは、何の問題もないかに見える時に、罪の告発がなされたならば、どのような反応をするのでしょう。
リュティはその説教集の中で、三つの反応を挙げています。
一つは、「目の前のことには気づかず満足している」(リュティ、『預言者アモス』、新教出版社、1975年、125頁)。二つ目は「あの人や、また別の人の罪責を見出す」(前掲書、126頁)。いずれも罪の解決はありません。平安な道は開かれないのです。
しかしもう一つの反応がある、それは「静かに沈思しはじめる。」「今、悔い改めねばならないことを認める。」「懺悔と悔改めをして、自分の神の前に静かになる」。その人は「一切の理解力にもまさる平安を得る」(前掲書、126頁)と。
この平安をいただく者は、また罪の結果を救い主を仰ぎ見つつ耐え忍ぶ者となる。これが恩恵、恵みである。この恵みを見出すことができる、とリュティの説教集には続きます。
罪のない者はいません。しかし物質的な繁栄は、私たちの中にある罪から私たちの目をそらせます。とんとん拍子にことが運んでいると、自分の中の罪に気づかない、あるいは気づこうとしないのです。ご利益宗教の一つの問題点はここにあります。
祈りは大切なことです。祈りによって私たちはさまざまな願いを神さまに献げます。そして神さまが聴いて(「効いて」?「利いて」?)くださった、祝福を与えてくださった、ということを単純に喜び感謝するようにと神さまに招かれています。幼な子のようになって喜び感謝するのです。
しかしそうして、祈りが聞かれた、という宗教的な現象は、キリスト教でなくてもさまざまな宗教によって語られていることでもあります。ではキリスト教の祈りの特徴はどのようなところにあるのでしょうか。
キリスト者が信じていることは、イエスさまの十字架と復活です。あるいは十字架と復活の主イエスさまを信じているということです。そして十字架が私の罪の贖いのためであったと信じています。それは信仰生活の基礎ですが、基礎であると同時に、すべてでもあります。祈りが聞かれるための土台、あるいは条件として、イエスさまの十字架を信じているというだけではなく、イエスさまの十字架を信じているということそのものが、私たちの祈りのあり方を現しているのです。つまりよく祈る人、というのは、それだけ悔い改める人であり、自分の罪から目をそらせない人、ということなのです。それだけ罪深い自分自身に向かって静かに沈思し、十字架と復活の主を見上げ、懺悔と悔改めをして、神さまの前に静かになる人、なのです。
ご利益宗教は、これとは全く違い、自分に目を留めようとしません。ご利益宗教の祈りは、自分の願い事、すなわち願望ばかりに終始し、自分の罪深さを見ようと沈思することをしません。むしろ罪深い自分から目をそらせようとします。自分から目をそらせるために一所懸命に祈っていることにもなりかねません。無病息災、家内安全、交通安全・・・。そのような祈りが飛び交う中に、自分の罪を嘆き悔い改める姿があるのでしょうか。
世の宗教だけではありません。キリスト教もこのような祈りに腐心することがあります。自らの願望と欲望の実現のための道具となってしまったキリスト教は、十字架と復活抜きのキリスト教でしょう。そのような教会の会衆席にお座りになっているイエスさまが隣の人に尋ねておられる姿を想像します。「これ、何の宗教ですか?」。こうなってしまってはいけないですね。
「主のことばを聞くことの飢饉」(11)。
聖書の言葉はあふれています。私も何冊も聖書を持っています。しかし真に飢え渇きをもって読んでいるだろうか。みことばを慕い求めているだろうか、と振り返らされる聖句でした。