まことに、私も私の父の家も罪を犯しました

静まりの時 2022年7月30日(土)
ネヘミヤ1・5~11

「どうか、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。」
(ネヘミヤ1・6、新改訳2017)

 捕囚により荒廃した祖国イスラエル。その復興を中心になってリードすることになったネヘミヤ。ネヘミヤはこのとき「王の献酌官」(11)でした。王といってもイスラエルの王ではありません。ペルシャの王です。世界はペルシャの時代を迎えています。捕囚にあった民の末裔であるユダヤ人ネヘミヤは、献酌官としてペルシャの王に仕えています。献酌官というのは文字通り、お酒を王に献げる人ということですが、実際には王の護衛がその職務であったと説明がありました。
 そのネヘミヤのもとを、ネヘミヤの兄弟の一人ハナニという人物が訪ねます。兄弟といっても今日私たちのいう兄弟というよりも、いとこ、親戚筋、という感じでしょう。ネヘミヤは何気なくハナニに問いました。「捕囚されず残された逃れの者であるユダヤ人たち」について、また「エルサレムのこと」について尋ねたのです。
 イスラエルには捕囚されず残された民がいたのです。戦いに勝った国は、敗れた国から物資だけではなく人材を奪いました。イスラエルから人びとを自分たちの国に拉致してきたのです。しかしすべての人を拉致したのではありません。自分たちの国にとって有用な人物だけを連れて来たのです。ですから残された人びとがいました。残された人びとはいわば「有用でない」とのレッテルが張られた人びとだったのだと思います。
 やがて平和な時代を迎え、イスラエル地域との自由な交流も再開しました。ネヘミヤのような人物は、いわゆる成功者だったのでしょう。捕囚の民の末裔であり、またペルシャ人ではないユダヤ人でありながらも王の側近としての地位を得ていたのです。
 さてそのネヘミヤが、ハナニに何気なく、祖国の様子を聞くと、「・・・大きな困難と恥辱の中にあります・・・エルサレムの城壁は崩され・・・」と、いまだ荒廃の中にあることを聞かされました。そのときのネヘミヤの様子が4節に記されています。

「このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。」(4)

 ネヘミヤにとっては、捕囚の苦しみは遠い昔の出来事であるはずです。おそらく自分の父や祖父の時代のことです。今の自分は、ユダヤ人とはいえ、すでにペルシャの高官として豊かな生活の中にあります。イスラエル、ユダヤ、エルサレム。ネヘミヤにとってはまったく関係のないことだったのではないでしょうか。たとえば明治期に移民としてアメリカ大陸に渡り、数代にわたってその地での生活が営まれてきた人びとの目に、令和の時代の日本はどのように映るでしょうか。もはや外国といってもよいのではないでしょうか。
 このとき、祖国の荒廃を聞いても、それはたいへんですね、祈っています、ということで終わるのが普通のことだったのではないでしょうか。ところがネヘミヤは、ハナニの言葉に、座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して、神さまに祈った、というのです。ハナニも驚いたと思います。ネヘミヤの心に奇跡が起こったのだと思います。

 心が動く。そこに神さまの奇跡が起こっているのだと思います。心が動いたネヘミヤは祈りました。その祈りの言葉が今朝の聖句です。祈りの内容は、一言で言うならば、懺悔(ざんげ)、です。6節に注目したいと思います。

「・・・私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。」(6)

 ここで注目しなければならない言葉は、「私も・・・罪を犯しました」です。
 捕囚の苦しみは、実際にはバビロン、アッシリアという大国の侵入によって生まれたものです。しかし聖書は、それは偶像礼拝の罪を犯したユダヤの人びとに対する神さまのさばきであった、と語ります。罪を犯したので、イスラエルは荒廃し、エルサレムは陥落したのです。その罪とは、すでに何十年も昔に犯された罪です。ネヘミヤにとっては数代も前の人たちの罪です。ネヘミヤには関係ありません。にもかかわらずネヘミヤは「私も私の父の家も罪を犯しました」と告白し懺悔しているのです。

 たとえば70年以上まえの戦争で犯された数々の罪を、今生きる私たちはどのようにとらえているでしょうか。私とは関係がない、としているでしょうか。それとも「私も罪を犯しました」と神さまの前に悔い改めの祈りをささげるのでしょうか。

 心が動かされることが神さまの奇跡であると同時に、そこで祈ることも奇跡でしょう。そしてその祈りが、悔い改めであり懺悔であることも、神さまの奇跡であり、奇跡にあずかっていることなのだと思います。
 私たちは日本の国がこれまでに犯してきた罪の数々を「私も犯しました」と告白するでしょうか。鎌倉時代、室町時代、戦国時代、そこで繰り広げられてきた権力争いの中での殺戮を、私も犯しました、と告白するでしょうか。日々報道される犯罪を「私も犯しました」と告白するでしょうか。それとも今の私とは関係がない、とするのでしょうか。

 ネヘミヤは「私も犯しました」と神さまに向かって告白しました。この祈りが、祖国復興に向かうネヘミヤの力の源泉となったのではないか、と思います。

 もちろんいたずらに、他者の罪を自分の罪のように感じる必要ありませんし、そこはいわゆる境界線をしっかりと引く必要もあるでしょう。ネヘミヤも、何でもかんでも自分の罪として懺悔していたわけではありません。ネヘミヤにとっては、祖国は一つのテーマになったのだと思います。私たちもそれぞれに人生のテーマがあると思います。イエスさまは、私だけが生きることのできる人生を導こうとしていてくださるのだと思います。

 今日は備えの日。良い備えの一日をおくり、明日の主の日にのぞみましょう。