静まりの時 2022年7月29日(金)
詩篇61・1~8
「指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデによる。
1 神よ 私の叫びを聞き
私の祈りに耳を傾けてください。
2 私の心が衰え果てるとき
私は地の果てからあなたを呼び求めます。
どうか 及びがたいほど高い岩の上に
私を導いてください。
3 あなたは私の避け所
敵に対して強いやぐら。
4 私は あなたの幕屋にいつまでも住み
御翼の陰に身を避けます。セラ
5 神よ まことにあなたは 私の誓いを聞き入れ
御名を恐れる者の受け継ぐ地を私に下さいました。
6 どうか王のいのちを延ばし
その齢を代々に至らせてください。
7 王が 神の御前でいつまでも
王座に着いているようにしてください。
恵みとまことを与えて
王をお守りください。
8 こうして 私はあなたの御名を
とこしえまでもほめ歌い
日ごとに 私の誓いを果たします。」(詩篇61・1~8、新改訳2017)
「・・・耳を傾けてください」「・・・導いてください」との願い。そして「あなたを叫び求めます」「あなたは私の避け所・・・」「・・・御翼の陰に身を避けます」との信仰の告白。「あなたは私の誓いを聞き入れ・・・」との神さまのみわざを数えること。祈りは、願い、信仰の告白、神さまのみわざへの賛美です。
「どうか王のいのちを・・・」。ダビデの祈りとの説明がつけられているこの詩篇。王であるダビデ自身が「王の」と祈っています。それまで「私の」と祈っていたのですが・・・。
ダビデにとって自らが王である、ということは、ひたすら神さまの一方的な油注ぎの中にあることであり、それは役割であり、また責任であった、ということでしょう。ですから王のために祈る、ということは、結局は国のために祈るということであり、それはまた民のために祈るということであった、と考えてよいのではないでしょうか。
自分自身と役割として与えられている責務。この二つを区別できる、ということは大切なことです。王という職務は、神さまに召されて、神さまから王という役割を一時的にお預かりしたということです。役割が終われば神さまにお返しするものです。それができなくなるとサウルのようにいたずらに王の権力にしがみついてしまいます。そうして国自体を危険に晒せてしまい、自分自身をも滅ぼしてしまいます。ダビデの立派さは、自らが王である、ということを、神さまから与えられた役割である、ということをわきまえていたところにあった、と言えるかもしれません。
「こうして・・・日ごとに 私の誓いを果たします」。信仰の決意の祈りがささげられ、この祈りは締め括られます。自分の力によって決意しているのではありません。自らは神さまに願いをささげなければならない者である、神さまへの信仰がなければ生きていくことができない者である、そうして神さまの一方的なみわざによって生かされている者である。その信仰が、自らの決意の言葉を支えています。
私たちもダビデのように、今日も神さまをほめたたえて生きていきます。その私たちの信仰の決意も、私たちの願いを聞き、みわざをなし、私たちをともにいて下さる神さまの御手の中にあります。
感染症が広がっています。苦しみの中にある方々のいやしを祈りましょう。医療スタッフのために祈りましょう。一日も早い終息のために祈りましょう。また昨日に続き手術を受ける方のためにも覚えて祈りましょう。