静まりの時 2022年7月28日(木)
コロサイ4・2~6
「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。
同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。
外部の人たちに対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。」
(コロサイ4・2~6、新改訳2017)
「たゆみなく祈りなさい」(2)。
口語訳では「ひたすら祈り続けなさい」、新共同訳では「ひたすら祈りなさい」。この「たゆみなく」「ひたすら」と訳されている言葉は、原文のギリシャ語では「固執(着)する、~から離れない、専心する、常に従事する、絶えず(常に)いる(滞在する)」などの意味をもつ単語が使われています。祈ったり祈らなかったり、というのではなく、四六時中、何があっても、祈りに固執する、ということのようです。実際、「たゆみなく祈る」ことは、静まって祈りの時間を確保するということで大切なのことだと思いますが、それとともに、何をするにしても祈りの心を持っている、ということも大切ではないかと思います。いつも心をイエスさまに向けていること。ひとりで生きているのではなく、傍らにはいつもイエスさまがいてくださり、私の歩みが常にイエスさまにたずねながらの歩みであること。そんな信仰生活を思います。
そのような祈りのすすめに続き、パウロをはじめ使徒たちのために祈ってほしい、との言葉が続きます。何を祈ってほしいのか。神さまの言葉をしっかりと、まっすぐに語ることができるように祈ってほしい、と続くのです。教会の福音宣教は、伝道者のスタンドプレーではなく、教会の祈りの中になされていくことなのです。礼拝の会衆は、説教を聴くお客さんのような聴衆ではなく、説教者のために祈る人びと、祈りの援軍なのですね。私たちの教会にはこの援軍がたくさんおられます。
「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい」(6)。
「親切で」は、口語訳では「やさしい」、新共同訳、共同訳2018では「快い」。原文のギリシャ語では「カリス」という言葉で「恵み」という意味を持っています。恵み深い言葉、と言ってもよいのかもしれません。ただ耳障りのよい言葉というのではなく、相手に恵みを与えるような言葉、ということでしょう。
外部の人たち。すなわちキリスト者でない人たちに対しては「機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい」ということですが、そこで語るべき言葉は、恵みに満ちた言葉であり、塩味の効いた言葉でなければならない、とパウロはすすめます。そのような言葉を語るためにも、「たゆみなく祈る」信仰生活が期待されているのでしょう。
祈りに裏打ちされている言葉は、相手に恵みを与える言葉、塩味のきいた言葉、人を生かす言葉となる、ということだと思いますが、そのような力強い言葉をキリスト者は語ることができるのです。
この力強い言葉を生み出すキリスト者の祈りは、謙遜な祈りの中から生まれるものであると思います。
P・T・フォーサイスの『祈りの精神』の中の「不断の祈り」という章の中に以下の文章があります。
「われわれは祈りにおいて、排他的に、安楽、力、悦楽、同情、慈悲のみを求めて、本当の謙遜という麗しい力を求めようとはしない。われわれは美しい祈り、感動的な祈り、素朴な祈り、思慮深き祈り、涙にむせび震える祈り、思いやりと威厳のある祈りを欲する。しかし自己吟味の祈り、謙遜な祈り、単なる感情や趣味でない良心的祈り、ひたすらに実在に心注ぐ祈り、必要ならば不幸をも甘受して新しい喜びを勝ち得てゆく祈り―このような祈りは正当に歓迎され、また信仰者の心にひろがっているであろうか。われわれの祈りには、同情はできても矯正することのできない、憐れむべき治療不可能な自己満足がある。過去を楽観的に振り返り、こちらが激昂したくなるほどの微笑をたたえている快活な八十の老人のような自己満足が多すぎるのではないであろうか。」
(P・T・フォーサイス、『祈りの精神』、ヨルダン社、1969発行、1986改訂、96頁)
ちょっと難しい文章ですが、言わんとしていることは、真実な祈りは謙遜な祈りである、ということではないかと思います。そのような真実な祈りが、不断の祈り、つまり「たゆみなく祈る」祈りとなっているならば、その信仰生活は謙遜なものとなっている、ということでしょう。
どんなに立派な祈りがささげられていても、謙遜でないならば祈っていないのと同じなのです。「パリサイ人と取税人の祈り」(ルカ18・10~)のパリサイ人は、確かに神さまに向かって祈っているのですが、祈っていないのと同じなのです。取税人こそ祈っているのだ、ということでしょう。