静まりの時 2022年7月27日(水)
第一ヨハネ5・13~17
「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。
だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です。しかし、死に至る罪があります。これについては、願うようにとは言いません。不義はすべて罪ですが、死に至らない罪もあります。」(第一ヨハネ5・13~17、新改訳2017)
イエスさまを信じたときから私たちは「永遠のいのち」を持っています。そのことを分からせるために、ヨハネはこの手紙を書いたのだ、といいます。イエスさまを信じてすでに永遠のいのちをいただいているにもかかわらず、そのことが分からない、それが私たちの現実である、ということでしょう。どうすれば分かるのか。それは祈りにおいて分かる、実感する、というのでしょう。
何事でも神さまのみこころにしたがって願う、祈る。そうするならば、神さまは聞いてくださる。この確認こそ、私たちが永遠のいのちをいただいていることが分かる道だ、というのです。
どのようなときに私たちは祈るのでしょう。自分の力ではどうすることもできない現実に出会ったときに、またそのような現実を前にして平安を見失ったときに、私たちは祈るのではないでしょうか。どのようなことでも神さまに祈ればよいのですが、その祈りの中で神さまのみこころをたずね、神さまのみこころに自分の心が引き寄せられていく。そうして自分の心が変えられていく。いたずらな自分の願望が、神さまにある希望へと導かれていく。そのような祈りのときを経験します。
このような祈りの時を通して私たちは、自分一人で生きているのではなく、神さまが私の人生とともに歩んでいてくださる、ということを学びます。神さまは永遠のお方である、私の心が、この永遠の神さまの御手の中に委ねられていく、その時、私という限りある者が、永遠の神さまに結びつけられた新しい存在であることを知らせていただける、のです。
祈りの課題は、この世では、すべて時間の縛りの中にありますが、永遠の神さまに向かって祈るときに、その課題は、永遠の時の流れの中に置かれるのです。あるいは置かれていたことを知るのです。
このような祈りの体験は、実際に私の願望が実現するかどうか、ということよりも、すでに神さまのみこころの中に私の現実のすべてが委ねられているという信仰を学ぶときでしょう。私の思いをはるかに超えた祈りの答えが、この瞬間にすでに現実のものとなっているということを学ぶときなのだと思います。
ヨハネは、つづけて、兄弟の罪の赦しのために祈る、ということを語ります。祈りというとまずは私の願いが中心となりますが、キリスト教会の祈りは、私の願いだけではなく「兄弟の罪の赦し」を祈ります。兄弟の罪が赦される、ということは、他人事ではなく、自分の問題でもある、ということかもしれません。
しかしそこで、死に至らない罪のためには祈れ、死に至る罪については祈るようには言わない、という、意味深な言葉がでてきます。罪には二種類あって、死に至らないものと、死に至るものがある、というのです。この場合の死は、前節までの永遠のいのちということばを合わせて考えると、永遠の滅び、と考えていいように思います。
死に至る罪。それは赦されることのない罪ということでしょう。福音書には「聖霊に逆らう罪」(マタイ12・31~)、という言葉が出てきますが、それと重なることかもしれません。
罪の赦しは、神さまの主権の中でなされることなので、私たちはただ祈るばかりなのです。その祈りが答えられないことも、織り込み済み、であるということをわきまえていなさい、ということかもしれません。何が死に至らない罪で何が死に至る罪なのか、ということについては、聖書は語りません。また何が聖霊に逆らう罪であるのかも、聖書は語らないのです。ですからそれは神さまの領域のことであって、人間がとやかく言うことではない、ということかもしれません。何が死に至る罪なのか、何が聖霊に逆らう罪なのか、の議論は不毛である、ということでしょう。ですから結局、罪を犯す兄弟のためには、私たちはただ祈る、ということをするのだと思います。
キェルケゴールは『死に至る病』のなかで、死に至る病とは絶望である、といいます。そして絶望は罪である、といいます。また絶望とは自己の喪失である、とも語ります。神さまを信じるということは、あらゆる絶望の中にあっても、なお希望に生きることなのだと思います。主にある者はすべて、永遠の神さまに祈ること、を知っているのですから。