私たちの岩

静まりの時 2022年7月14日(木)
申命記32・28~35

「まことに彼らの岩は私たちの岩に及ばない。敵もこれを認めている。」
(申命記32・31、新改訳2017)

 この「彼ら」とは一体誰のことなのでしょう。27節の「彼らを苦しめる者ども」では、「彼ら」はイスラエルの民、「苦しめる者ども」は異邦人のことでしょう。その文脈の中で28節以降を考えると、「彼ら」とは「イスラエルの民」であると理解できるのだと思います。ここで偶像礼拝に心惹かれ、そのために神さまのさばきにさらされているのは、異邦人ではなく、イスラエルの民、ということになります。

 神さまによってエジプトを脱出したイスラエルの民でしたが、しばしば信仰が揺らぎました。神さま以外のものを「岩」としたのです。しかしその岩と見えたものは、「私たちの岩」であるまことの神さまには及ばないものです。そのことは「敵」、すなわちイスラエルに敵対する民族も認めている、あのエジプトでさえ認めた、というのです。敵さえまことの神さまには及ばないものであると認めているにもかかわらず、イスラエルは、神さま以外の岩を求めてしまう。それこそ偶像礼拝という言葉が明らかにしている問題なのだと思います。

 今日の私たちに当てはめるとすれば、神さまのさばきにさらされているのは、キリスト教以外の様々な神々を信仰している人たちというのではなく、日々聖書に親しみ、日曜日には教会に通い礼拝をささげ、自他ともにキリスト者と認めているけれども、その信仰生活を見ると、まことの神さまを岩としているとは到底考えられないところがある。それこそ偶像礼拝である、ということなのだと思います。そういう偶像礼拝を考えていかないと聖書を読んだことにはならないでしょう。

 コリント人への手紙を見ると、この手紙の冒頭に「コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」と記されています。聖徒というからにはどんなに聖い人たちであろうかと思ってこの手紙を読み進めていくと、コリントの信徒たちの中にうごめく数々の罪が指摘されていきます。とても聖い人たちとは思えなくなります。その彼らに向かって、あらためて最も大切なものとして愛が語られるのです(13章)。この手紙の中で有名な言葉といえば「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(第一コリント10・13)が挙げられますが、これに続いて「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい」(14)とあるのは、神さまを真実な方として受け入れない信仰生活、すなわち神さま以外を「岩」とする信仰生活は偶像礼拝であり、そのような生活は愛のない生活を生み出す、と語られているように思えてきます。

 キリスト者の信仰生活上に起こる偶像礼拝とは一体どのようなものでしょうか。イエスさま、イエスさまと言いつつも、偶像礼拝となっている信仰生活とは一体どのようなものなのでしょうか。「偶像礼拝」という言葉を聖書の中からいくつか拾ってみましょう。

「従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(第一サムエル15・23)

「兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。
 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。
 しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。
 あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。」(第一コリント10・1~7)

「このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。」(エペソ5・5)

「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」(コロサイ3・5)

「あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。」(第一ペテロ4・3)

 高慢、貪り、淫ら、汚れ、情欲、悪い欲、などなど、そういうものこそ偶像礼拝である、ということでしょう。外面的にはキリスト者としての生活があったとしても、その内面において高慢と貪欲があるとすれば、それは偶像礼拝をしているのだ、というのです。異教の神々、他宗教の神々を礼拝することにおいて偶像礼拝の問題を考えることも大切かもしれません。しかしそれ以上に、この高慢と貪欲こそ偶像礼拝であるという視点で自らを省みることが大切なのではないかと思います。キリスト者が神さまから問われていることは、そういうことではないでしょうか。

 ただ、高慢と貪欲に無縁な人はだれひとりこの世にはいないでしょう。すべての人は高慢と貪欲を心の中に持っているのだと思います。しかしまことの神さまを岩としてこの神さまに礼拝をささげる者は、その心の王座にご聖霊さまが住んでくださっています。ですから、私たちは自分の中にある高慢で貪欲な心と闘っています。このお方こそ岩なのですから、私たちは自らの高慢と貪欲に勝利することができます。高慢と貪欲が消えてなくなることはありません。しかし勝利の約束をいただいています。勝利の秘訣は、このまことの神さまを岩とすることです。まちがっても自分自身を岩としないようにしましょう。