静まりの時 2022年7月13日(水)
申命記32・19~27
「主は見て、彼らを突き放された。主の息子と娘たちへの怒りゆえに。」
(申命記32・19、新改訳2017)
私たちの神さまは、神さまを信じる者を「突き放す」ことのできるお方です。神さまは、まことの神さまを捨て偶像の神々に頼るご自分の民を見過ごしにはされません。ご覧になって、彼らを退けること、も辞さないお方なのです。
ご自分の民であるイスラエルを突き放された出来事とはいったいなんでしょうか。旧約聖書で神さまが突き放された出来事として思い起こされることは、まずは「バビロン(アッシリア)捕囚」だと思います。しかしそれはこの申命記の時代からはずっと後代になりますから、当てはまらないような気がします。40年の荒野の旅なのかもしれません。もっと先のノアの洪水やバベルの塔の出来事が思い起こされているのかもしれません。
まことの神さまを捨て偶像の神々に頼ることを、聖書の神さまは見過ごしにはされない、ということが強調されているのだと思います。そのことをモーセは歌い、民に記憶させました。
「彼らを苦しめる者どもが誤解してはいけない」(27)。
彼らとは誰のことであるのか。誤解とは一体何を誤解するのか。いくつかの解釈があるようです。とりあえず今朝は次のように理解しておきましょう。
神さまのさばきによって神さまから退けられたイスラエルの民。そのさばきの方法として神さまは異教の人びとを用いられました。「神でないものでわたしのねたみを引き起こし、彼らの空しいものでわたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民でない者たちで彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で彼らの怒りを燃えさせる」(21)とあるように。
しかしそれは、今度は「民でない者たち」「愚かな国民」とここで表現されている異教の人びとが「誤解」をしてしまう可能性がある。「われわれの手で勝ったのだ」(27)と。神さまはそのような誤解を見過ごしにはしない、といっておられるのだと思います。ですからのちに異教の国々にも神さまはご自身のさばきを下されます。
まことの神さまはさばきの神である。私たち罪びとは退けられなければならない、突き放されなければならない、そのようにさばかれなければならない存在である。そのことを聖書ははっきりと語ります。
しかし、罪が犯されたならばさばかれなければならない、ということは、なにも聖書に教えられなくても、私たちは知っています。法を犯せばさばかれ、損害を与えたならば償わなければなりません。それは分かっていることです。
聖書がわざわざ神さまのさばきを強調するのは、このさばきにもまして「赦し」が語られるためなのだと思います。聖書は赦しが語られるために、さばきが強調されるのだと思います。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3・16,17)
そもそも「赦し」が成り立つためには「赦しがたいこと」がその前提となります。「赦しがたいこと」がなければ「赦す」ということも成り立ちません。「赦しがたいこと」に対する「悲しみ」があるところで「赦し」は成り立ち、またその悲しみが深いところでこそ、赦されたことの喜びは大きいのです。罪に対する悲しみと赦された喜びは、比例しているのだと思います。
キリスト者は、イエスさまの十字架と復活によって罪の赦しをいただきました。この罪の赦しが成り立ち、またその喜びが大きなものであるためには、まず「罪」そのものが確認される必要があります。自らが罪びとであることが了解されていないところでの赦しの言葉には、喜びはありません。そもそもそれは赦しではありません。
教会はさばくところではありません。罪びとをさばく裁判所ではないのです。教会は赦しが語られるところです。さばきに恐怖するところではなく、赦しの喜びにあふれたところです。
しかし教会が赦しの喜びであふれたところであるためには、罪の悲しみをもっとも悲しむところでなければなりません。さばくところではなく、しかも罪の悲しみを深く悲しむところ。それが教会です。そのためには、一人ひとりが直接に神さまにお出会いし、自らの罪を明らかにし、その罪を悲しむ必要があります。その神さまとの一対一の出会いの場所には何人も入り込む余地がありません。誰かに強制されて生まれる場所ではないのです。
しかしどうすれば人間は、自らの罪を悲しむことができるでしょうか。人間にそのような力があるのでしょうか。自分の中にそのような自らの罪を悟る力がないとすれば、自分ではない存在、他者から、自らの罪について教えられなければなりません。かといって兄弟姉妹同士で、あなたは罪びとです、と言い始めるならば「さばきの教会」となるでしょう(笑)。
ですから教会は、礼拝の中で、聖書の朗読があり説き明かしがあるのです。一つの倫理基準があり、人からではなく、神さまからの言葉として、その倫理基準を聞き、学ぶのです。しかしそれでも司祭や牧師が語る聖書の言葉が、ある人にとっては「当てつけ」に聞こえる場合もあるでしょう。また司祭や牧師自身も、その弱さの中で当てつけのような説教を語りたくなる誘惑にもさらされるでしょう。それらをできるだけ避けるために、その日の礼拝で読まれる聖書の個所は、カトリック教会では全国的に決められているとか、プロテスタント教会では、教会歴を大切にするところではそれに従って教団全体で決められているとか、そうではない教会では講解説教、つまり順に学んでいく、ということを大切にすることで配慮の一つとなっているように思います。
私たちは、主から突き放されて当然の者だったのです。しかしその主自らが父なる神さまから突き放されてくださいました。その十字架によって私たちは赦されたのです。よみがえられたお方が、私たちを突き放すことなく、世の終わりまで共にいてくださるのです。