静まりの時 2022年7月12日(火)
申命記32・7~18
「昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせる。・・・主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。・・・
あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。」
(申命記32・7~18、新改訳2017)
1985年5月8日のドイツ敗戦40年記念日になされた当時の西ドイツ大統領リヒャルト=フォン=ヴァイツゼッガーの演説から少し引用してみましょう。
「5月8日は、思い起こす日であります。思い起こすとは、ひとつの出来事を正直に、まじりけなしに思い起こし、その出来事が自分の存在の内部の一部になってしまうほどにするということであります。・・・何よりもわれわれは思い起こします。ドイツの強制収容所にあって殺された600万のユダヤ人を。われわれは思い起こします。戦争のゆえに苦しんだすべての民族を。・・・
・・・
罪責があろうがなかろうが、年を取っていようが若かろうが、われわれはすべてこの過去を引き受けなければなりません。・・・この過去を清算することが大切なのではありません。・・・過去を、あとから変更したり、なかったことにすることはできないのです。しかし、過去に対して目を閉じる者は、現在を見る目をも持たないのであります。かつての非人間的な事柄を思い起こしたくないとする者は、新しく起こる非人間的なるものの伝染力に負けてしまうものなのです。
・・・
まさにそれ故に、われわれは理解しなければなりません。思い起こすことなくして和解は起こりえないということを。
・・・
・・・想起はユダヤの人びとの信仰に不可欠なものなのであります。
忘却を望む心は出エジプトの悲惨を長引かせるのみ
そして、そこから救われる秘訣は
思い起こすべきことを思い起こすこと
しばしば引用されるこのユダヤの知恵の言葉は、神に対する信仰とは、神が歴史の中で働かれることを信じることだということを語るものでありましょう。
想起とは、歴史における神の働きを経験することなのであります。想起は、救済を信じる信仰の源泉であります。この経験が希望を造るのです。救済への信仰を造るのです。分断されている者たちがふたたび結び合わせられることへの信仰、和解への信仰を造るのです。この経験を忘れる者は、信仰を失うのです。・・・」
(加藤常昭、『ヴァイツゼッガー』、清水書院、1992年、19頁ff)
このなかの「過去に対して目を閉じる者は、現在を見る目をも持たない」はしばしば引用される言葉だと思います。
モーセは過去に対してしっかりと目を開こうと呼びかけています。そうでなければ、現在を見る目、そして将来に向かって行く目を持つことができない。約束の地に入る前に、しっかりと過去を見つめよう。思い起こそうと呼びかけています。
「主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた」(10)。
思い起こさなければならないこととは、自らの罪ですが、それに先立ち神さまがどんなに素晴らしいことをしてくださったのか。神さまのご真実とその愛を思い起こそうと呼びかけています。
「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103・2)
私たちは否定的なことを数えることは得意です。だからこそ信仰を持って、神さまのよくしてくださったことを思い起こす、忘れないようにする。そのことを自分自身に強いることが大切でしょう。信仰を持って生きる者は、主が良くしてくださったことを思い起こすことに上手な者になることなのです。
ヴァイツゼッガー大統領の演説の最後は以下の通りです。
「どうぞ、敵意と憎悪の中へと駆り立てられないようにして頂きたい。
他の人間に対する敵意と憎悪へ、
ロシア人あるいはアメリカ人に対する敵意と憎悪へ、
ユダヤ人あるいはトルコ人に対する敵意と憎悪へ、
ラディカルな要求をする人びと、あるいは、保守的な人びとに対する敵意と憎悪へ、
黒人あるいは白人に対する敵意と憎悪へ、
駆り立てられないで頂きたい。
対立して生きるのではなく、共に生きていくことを学んで頂きたい。
民主的に選ばれた政治家であるわれわれこそ、このことを常に繰り返して心に留め、その模範となろうではありませんか。
自由を尊ぼうではありませんか。
平和のために働きましょう。
法を守りましょう。
われわれのこころの内にある正義の模範に仕える者となりましょう。
きょう、この5月8日に、なしうる限り、真理をしっかりと見つめようではありませんか。」
(前掲書、44頁)
主が良くしてくださったことを思い起こし、そして自分自身の犯した罪過ちを悔い改めるとき、敵意と憎悪から解放され、真理と愛に生きる者へと進むことができるのです。
昨日は、オンラインで滋賀超教派牧師会が行われました。礼拝の時があり、各種報告があり、教会間での協力のための取り組みが語られました。最後に各教会の祈りの課題を分かち合いました。
2000年にびわ湖ホールにてレーナ・マリア・コンサートを開催したときに、できる限りでしたが県内の教会にあいさつに出かけました。そのとき滋賀県にはキリスト教会が70ほどあったと記憶しています。この3か月に一度開かれる滋賀超教派牧師会には多い時で20人ほどが集いますが、教派を越えて牧師たちが祈りの輪を持ち続けています。そこで私たちが4月から取り組むことになったことを分かち合わせていただくことになりました。簡単に説明する予定でしたが、質問される先生もおられて少し詳しくお伝えすることになりました。滋賀県じゅうの教会の牧師たちも私たちの教会のために祈っていてくださいます。主が良くしてくださったことを忘れることなく、今一度思い起こしながら、主の解決を待ち望みたいと思います。
「神に対する信仰とは、神が歴史の中で働かれることを信じることだ」。