主はあなたを造った父ではないか

静まりの時 2022年7月11日(月)

申命記31・30~32・6

「モーセはイスラエルの集会全体に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。

天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。地よ、聞け。私の口のことばを。

私のおしえは雨のように下り、私のことばは露のように滴る。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。

まことに私は主の御名を告げ知らせる。栄光を私たちの神に帰せよ。

主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく

正しい方、直ぐな方である。

自分の汚れで主との交わりを損なう、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。

あなたがたはこのようにして主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く立てた方ではないか。」

(申命記31・30~32・6、新改訳2017)

「モーセの歌」。モーセは人生の最期に、民全体に向かって歌を唱えました。この歌を「このみおしえのすべてのことば」(46)、共同訳2018では「これらの律法の言葉」とモーセは表現しています。神さまの教えを、歌にして民に伝え、民はそれを集会で歌い、また日々口ずさみ、律法に生きる民へと導かれて行きました。

讃美にはいくつかの目的がありますが、その一つは「教え」を宣べ伝え、また後代に記憶していくということでしょう。とりあえず暗唱せよ、と言われるとなかなか難しいものですが、歌になり口ずさむ言葉になっていると、日々の信仰生活の中に生かされやすくなります。子どもたちが社会科の課題で日本国憲法を歌にして暗記していたことを思いだします(笑)。

「栄光を私たちの神に帰せよ」。

教会ではよく引用される聖句だと思いますが、分かったようでわかりにくい言葉なのではないでしょうか。神さまに、栄光を、帰す。帰する、ということは、お返しするということでしょうか。絶対他者である神さまに栄光を帰する。罪人である私たちは栄光を我がものとしたいという願望を持っています。その願望に抗って神さまに栄光を帰する。

栄光とは、旧約聖書の言葉であるヘブル語では「重たい」という意味を持っているといいます。ある先生は、それを存在感がある、と説明されました。神さまの存在感が確かにされる。私たちの存在感ではなく、神さまの存在感が確かにされる。それが神さまに栄光を帰することである、ということでしょうか。

これは何よりも礼拝において確かにされることだと思います。モーセは民をまず礼拝へと導きます。

神さまを信じる者となる、ということは、神さまを礼拝する者となる、ということです。神さまを信じていはいるが、神さまを礼拝することがない、ということはあり得ません。神さまを礼拝することのない神さまへの信仰というのがあるとすれば、それはもはや神さまへの信仰ではありません。

礼拝とは、神さまこそまことに神さまであるということが確かにされる、ということです。「主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である」(4)と続きます。逆の言い方をするとすれば、人間は岩ではない、人間の為すことは不完全である、人間の道や謀(はかりごと)には正しくない部分がある、人間は不真実で偽りだらけ、不義でまっすぐではない、と告白されることがまた礼拝でもあります。神さまの栄光を帰するまことの礼拝をささげるキリスト教会では、神さま以外のものが輝くことをことさらに避けようと配慮がされてきました。

古来イスラエルはそのような神さまに献げものをもって礼拝をささげてきました。しかしそれらの犠牲は不完全なものでした。二千年の昔、完全な犠牲が、イエスさまにおいてささげられました。この時から動物の犠牲を献げる必要がなくなりました。神さまの方が完全な献げものをなしてくださったので、私たちはそのみわざを感謝し、そのみわざをなしてくださった神さまの栄光をほめたたえることになりました。ですからキリスト教会の礼拝では、動物の犠牲はなく、ただ私たち自身によって、神さまの栄光をほめたたえる。十字架と復活のみわざを明らかにし感謝し、その神さまをほめたたえることを礼拝として行います。礼拝のプログラム、つまり賛美において、聖書の説き明かしにおいて、祈りにおいて、神さまをほめたたえます。

「自分の汚れで主との交わりを損なう、主の子らではない、よこしまで曲がった世代」(5)。

私たちはかつては「自分の汚れで主の交わりを損なう、主の子らではない」ものでした。「よこしまで曲がった世代」の中にありました。しかしそのような私たちを救いきよめるために神さまは御子イエスさまを十字架につけられました。またそのみわざの確かさをイエスさまの復活によって明らかにされました。私たちは自らの罪を悔い改め、十字架と復活の主をほめたたえます。

「主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く立てた方ではないか」(6)。

「あなたがた」(6)と呼びかけた後に「あなた」と単数で呼びかけられています。

私たちは主の祈りにおいて「我ら」すなわち「私たち」と複数の言葉で祈ります。これに対し使徒信条では「我」すなわち「私」と単数の言葉で告白します。ここには礼拝における共同体の意味が明らかにされているように思います。

「自由教会の礼拝はしばしば二つの犯しやすい混同によって不徹底なものとなっている。第一に、個人の祈りと共同の祈りとの間に混同があり、これはキリスト教礼拝の本質的に共同的な性質を破壊する19世紀の分裂的な個人主義の遺産である。礼拝は統一された行為であり、それは同時になされる多くの個々の礼拝行為の総計ではない。」

(レイモンド・アバ、『礼拝』、109頁)

「共同の礼拝において祈るのは会衆である。正しく理解された公の祈りは、個々の祈りの総計でも、牧師の個人的な祈りを受動的に聞くことでもなく、それは『公同の祈り』、神の民の祈りである。彼自身が祈るのではなく、祈りという共同の行為を導くことは、牧師の義務であり特権である。彼の目的は、成文を用いると、即席の祈りをなすと否とにかかわらず同じである。彼はその会衆に代わって、全会衆の祈りをささげるのである。」

(レイモンド・アバ、『礼拝』、110頁)

これは個人の祈りと礼拝における祈りとの違いを論じた個所からの引用ですが、祭司のように会衆を代表して祈るので、「私たち」と複数形になるのですね。その代表が主の祈りである、ということです。

これに対して使徒信条は「私は」と単数形で告白します。

「信仰は神の賜物である。わたしたちは、自分自身の努力や知恵によって、あるいは特別に善良であったり生まれながらに敬虔であったりすることによって信仰を得るのではない。信仰は神に対して何らかの要求をつきつけるような、わたしたちの側からなしうる貢献ではない。神ご自身がわたしたちを福音へと心開かせるのである。神が信仰を創造し、信仰を保持する。信仰は、わたしたちの功罪とはかかわりのない神の自由な贈り物なのである。

にもかかわらず同時に、信仰は信じる者の側の真に個人的な決断である。神ご自身が真実に個人的な決断をなす可能性を与え給うのであり、その神の与え給う可能性に基いてなされる決断は、わたしたちひとりひとりの自由で個人的な決断なのである。・・・」

(クランフィールド、『使徒信条講解』、19頁)

隣の人が信じなくても、自分は信じる、という告白。それが使徒信条においてなそうとしていることなので、どうしても「私は」と単数形になるのですね。

しかし礼拝で告白しているということ、そうして共に礼拝をささげているということは、「私は」と告白する一人ひとりが、一方の木であるイエスさまに結び付けられている、そうして共同体として告白している、ということもまた明らかにされています。

主に生かされている私たちは、神さまに造られたものであり、今もこの神さまに支えをいただいているものです。自分の土台がどこにあるのか。今一度確かにされて今日も健やかな一日を過ごします。