静まりの時 2022年7月15日(金)
申命記32・36~43
「主は御民をかばい、主のしもべらをあわれまれる。彼らの力が去り、奴隷も自由の者も いなくなるのをご覧になって。」
(申命記32・36、新改訳2017)
新共同訳と共同訳2018を並べてみましょう。
「主は御自分の民の裁きを行い 僕らを力づけられる。主が見られるからである 彼らの力がうせ去り 未成年者も成人した者もいなくなったのを。」(新共同訳)
「主はご自分の民を裁き 僕らを憐れむ。彼らの力がうせ つながれた者も自由な者もいないのを 御覧になるからである。」(共同訳2018)
新改訳で「かばう(庇う)」は、共同訳系では「さばく(裁く)」と訳されています。原文では「さばく、争う、抗弁する」という意味だそうですが、おそらく誰に対して争うのかの理解の違いがこのような訳語の違いとなっていると思われます。新改訳では「御民」(ご自分の民)に敵対する勢力に対してさばく、争う、ということから、かばうと訳されていると推測されるでしょう。それに対して共同訳系では、ストレートに御民(ご自分の民)に対して、さばく、争うということ、と訳されているのだと思います。
次に続く言葉「主のしもべらをあわれまれる」「僕らを力づけられる」との関係を考えると、神さまがあわれんでくださるのだから、さばくという言葉と並行して記されているとするとつながりが悪い、他の民族をさばくことによってイスラエルの民をかばおうとしておられるのだ、と新改訳では解釈したのでしょう。
しかしやはりここは、原文通り共同訳系の方が良いのではないかと思います。つまり神さまのあわれみ、神さまが力づけられるということは、「さばく」ということにおいてなされる、ということではないでしょうか。神さまによってさばかれるということは、実は神さまはそれによってあわれんでいてくださる、力づけようとしていてくださる、ということなのだと思うのです。ご自分を信じる者に対してさばくということをしない神というのは、義も愛もない神であって、それこそ偶像の神なのだと思います。
いま図書館で借りてきた森本あんりの『不寛容論』を読んでいるのですが、なかなか面白い本です。ヨーロッパから自由を求めてアメリカ大陸に渡ってきたピューリタンたちは、ともに渡ってきた他の教派の人たちを迫害していったのですね。この歴史的事実なども振り返りながら寛容と不寛容について論じている書物です。まだしっかりと読んでいないので間違った理解かも知れませんが(笑)。寛容な世界を築くために、不寛容を主張する人たちに対して寛容になることは可能か、などといった理論も展開されています。寛容を追求する中で、不寛容に対しても寛容になると、結果的に世界は崩壊するのではないか、などなど。自由という言葉に置き換えるとすれば、自由な世界を築くためには、自由の制限を主張する人に対しても自由を保証することが、果たして自由な世界を築くことになるのか。自由な世界を築くために、歴史は、ときに自由を制限してきた、ということなどなど。
それはさておき、この書物の中に引用されていた聖句のひとつに第一コリント5章からの言葉がありました。
「私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは神がおさばきになります。『あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。』」
(第一コリント5章11~13、新改訳2017)
聖書は愛と赦しの書物であり、キリスト教会はそれを実践する共同体であるはずですが、このパウロの言葉はどのように理解すべきでしょうか。
この二重鉤括弧にした文書(聖書では一重の鍵括弧ですが)は、おそらく初代教会において「成句」となっていた言葉だろうと推測できます。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい」が教会の中で語られる言葉の一つであった。アーメン、ハレルヤ、ホサナ、マラナ・タ、とともに教会の言葉であった、と推測するのです。もちろんアーメンなどとは全く違う場面で使われることだったのだろうとは思いますが、少なくとも、教会で司祭が語る言葉の一つであった、ということではないでしょうか。礼拝に出て、前に立つ司祭が「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい」などと語られたらひやっ~としますね。でもそれが初代教会だったのです。
ここで大切なことは、外部の人たちについては、神さまがおさばきになるので、それに委ねよう、寛容に受けとめよう、ゆるそう、と呼びかけているのに対して、内部の人たち、兄弟と呼ばれる者、すなわち教会員に対しては、そこに罪や不義があるならば、徹底的にさばいた、といういうこと。それが初代教会の姿であった、ということなのです。
さばきの方法としてここには「そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない」とパウロが言い切っています。日本人的にいうと村八分です。なんということでしょう。
教会の外部の人が「淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」であっても、それは神さまがおさばきになることなので、神さまに委ねましょう、といって仲良く付き合うのですが、一方教会の内部の人が「淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」であれば、容赦なくさばく。これが初代教会の姿であり歴史の教会の姿であったと森本先生は論じておられました。別の言い方をすると教会は「自浄能力」を持っていた、あるいはそれを大切にした、ということでしょう。
私は今日の教会ではこれが逆になっているのではないかと思うことがあります。外部の人たちに対してあんがい強硬な姿勢を取りながら、内部では教会は愛と赦しの場所だからと何でも許されるような世界となってしまっている。自浄能力がみじんもない。そんな気がするのですが考えすぎでしょうか。
もちろん互いにさばき合っていては教会とはいえないのもわかります。ですから誰もかれもが互いにさばき合うのではなく、教会には教職者がいて、また長老会や役員会が組織され、その秩序の中で指導が行われるということが大切にされてきました。イエスさまを信じて洗礼を受けるということは、一つの地方教会のメンバーになるということです。この二つは切り離すことができません。つまりキリスト教信仰を持つということは、この教会の権威の中にへりくだる、自らを従わせる、ということに同意したということです。
ですから教会員の中に指導されなければならないことが見えたならば、当然牧師や役員会が指導します。それは教会員だからです。そしてそのさばきは、今日の聖句で言うならば、主のあわれみであり、主が力づけようとされることなのです。もし指導していただけないということであれば、それは外部の人になってしまっている、ということです。またその指導を受け入れない、ということであれば外部の人になってしまった、ということでしょう。あるいは最初から外部の人だったのかもしれません。
昨日は一日会議でちょっと疲れ気味だったのですが、今朝は健やかな朝を迎えました。振り返ってみると、昨夜しんどかったのは、寝る前にダンベル(言葉があっているでしょうか)の上げ下げと腹筋運動をしたことを思いだしました。ちょっとやり過ぎだったようです。手術をまえに入院のはじまった姉妹がおられます。いやしのために祈りましょう。