知恵をもって世界を堅く据え

静まりの時 2022年7月6日(水)
エレミヤ10・12~16

「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた。」
(エレミヤ10・12、新改訳2017)

 預言者エレミヤは、神さまからの言葉を南王国ユダに向かって語りました。その時すでに北王国はアッシリアの侵入によって滅んでいました。北王国は滅びその民は捕囚にあっています。北王国の悲惨を目の当たりにして、まもなく南王国ユダもバビロンの侵入によって滅びると、エレミヤは預言しました。しかし人びとは、神の国が滅びるはずがないと、エレミヤの預言を聞き入れません。かえってエレミヤを偽預言者呼ばわりしました。
 神さまの審判としてのバビロン捕囚。その理由は南王国ユダの偶像礼拝にありました。神さま以外のものを神としたのです。自分たちは神の国だから神さまが守って下さる、と言いつつも、神さまを第一とせず偶像礼拝をする南王国ユダ。神さまはそのようなユダに審判を下されます。
 エレミヤが語るのは、偶像礼拝をしているならば神さまの審判が下されるので悔い改めよう、悔い改めるならば、神さまは審きを思い留めてくださる、と言うのではありません。ユダは偶像礼拝の中にあるので、神さまは審判を必ず下される、しかし審判が下ったのちに回復の時がやって来る、その回復の時に希望をもって、この審判をあまんじて受けよう、そうして聖くされよう、というものだったのだと思います。これから受ける苦しみには意味がある、ということを語ったのであって、神さまを信じれば苦しみは無くなる、ということとは全く違う預言を語ったのですね。

 神さまは天と地のすべてを創造されました。その創造には神さまの力、知恵、英知が満ちています。目に見えない小さなものにも、見渡すことのできない大きなことにも、神さまの知恵が満ちています。理解できないような不思議な現象の中にも、神さまの知恵は満ちています。
 しかし人間はおろかです。知恵がありません。人間のおろかさは、偶像を作る、ということにおいて明らかにされます。おろかだから偶像を作るのか、それとも偶像を作るのでおろかなのか。偶像とは虚像であり人間を救うことができません。なぜならその中には息がないからです。息。旧約聖書の言葉では、息は、霊と同じ言葉です。霊のない存在に頼ろうとすること。それが人間のおろかさであり、またおろかだからこそそのようなものに頼ろうとするのです。

 霊がない存在。霊がないので、人格がありません。もの言うことがないのです。人間の言いなりです。偶像の最大の問題はここにあります。偶像に対する人間は、結局自分自身が神となることができるのです。
 しかし天地を創造されたまことの神さまは、霊的存在であり(ヨハネ4・24)、私たちにその人格をもって対峙されます。神になろうと欲望する私たちに意見をし、私たちを矯正されます。そうしてまことの神さまの前に立つ私たちは、自らが人間であることを知らされます。神になろうとする誘惑から守られ、健やかな人間として生きることができるようにしていただけるのです。

 しかしそれにしても、そのような神になろうとしてしまうようなおろかな人間も神さまがお造りになられたのですね。不思議です。「すべての人間は愚かで無知だ」(14)というのですが、そのような人間をお造りになられたのは神さまでしょう。その神さまが「御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた」というのですが、その力、知恵、英知とはいったいなんなのでしょう。
 力や知恵、英知をお持ちならば、おろかではなくもっと賢い人間を造られたら善かったのではないでしょうか。木の実を採ってはならないというのならば(創世記3章)、採ることができない人間を造られたらよかったのではないでしょうか。十戒に語られているような戒めをもうけるまえに、それらを行うことのできない人間とされてもよかったのではないでしょうか。力と知恵、英知を持っているということは、そういうことなのではないでしょうか。
 神さまは全知全能のお方です。何でもご存じなのです。人間が間もなく罪を犯すであろうことも期待はされてはいなかったと思いますが、承知されていたのではないでしょうか。しかしそれでもなお人間を創造されたのです。創造しても罪を犯してしまうことが分かっていれば、人間ならば、そもそも創造しなかったでしょう。それが力、知恵、英知に満ちているということではないでしょうか。
 しかし神さまは人間が罪を犯すであろうことをご存じの上で人間を造られたのだと思います。それが神さまの力、知恵、英知なのです。おろかな人間を、そのおろかさをすべてご存じの上で、なお造ろうと決意なさったところに、すでに神さまの無限の愛があるのです。すなわち十字架の愛があるのです。