私たちはキリストにあずかる者となっているのです

静まりの時 2022年7月7日(木)
ヘブル3・12~19

「私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。
『今日、もし御声を聞くなら、
 あなたがたの心を頑なにしてはならない。
 神に逆らったときのように』
と言われているとおりです。
 では、聞いていながら反抗したのは、だれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たちではありませんか。」

(ヘブル3・14~16、新改訳2017)

 旧約聖書・出エジプト記に記されているのは、エジプトで奴隷であったイスラエルの人びとが、モーセによって解放されるという出来事です。解放の出来事とはいうもののよく読めば、モーセをはじめエジプトを出発した人びとは約束の地に入れません。40年の荒野の旅の中で世代が交代するのです。それは彼らが神さまの言葉を「聞いていながら反抗した」からでした。その「反抗」のことを「悪い心」(12)、「罪」(17)、「不信仰」(19)という言葉でヘブル書は言い直しています。
 つねに神さまの言葉に心を柔らかくして聞き従うことができるかどうか。エジプトから脱出したあとの旅の中でイスラエルは神さまから試されたのです。イスラエルはその試練の中で、御言葉に対して心を柔らかくすることができませんでした。その結果約束の地に入ることができなかったのです。モーセもそうでした。メリバの水のことで、約束の地に入れないと神さまは言われたのです(申命記32・48~、民数記20・11)。出エジプト記は、解放の物語であると同時に、ある意味でイスラエルに対する神さまの試練とさばきとも読めるのだと思います。
 メリバの水ことなど、ほんの些細なことではないか、と思います。しかしみことばに従うかどうか、ということは、そういう些細なことにおいて問われることなのだと思います。世界を相手に殉教の死を遂げることも大切なことでしょう。しかし、家族のひとりに、誰からも見えないところで愛をかたむけるかどうか、そこにおいても神さまのみ声に従うがどうかを、神さまは大切にご覧になっておられるのです。イスラエルは結局、神さまの言葉に聞き従うことができなかった。心を頑(かたく)なにしてしまったのです。
 いま、イエスさまを信じる私たちはどうだろうか。神さまの御声を聞いて心を頑なにしてはいないだろうか、柔らかい心を持ち続けているだろうか、とヘブル書は問いかけます。もし心を頑なにしてしまって神さまの言葉を聞くことができず、神さまの言葉に生きることができないならば、安息にはいることができない。平安のない日々となってしまう、と語ります。もし今、平安がないということであれば、自分は御言葉を聞きそれに従っているだろうか、と振り返らなければならない、ということです。

「私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。」(14)

共同訳2018では

「私たちは、初めの確信を終わりまでしっかりと保つなら、キリストにあずかる者となるのです。」(14、共同訳2018)

とあり、この「確信」と訳されている言葉には欄外注が付けられていて、別訳「実質」と記されています。ヘブル1・3では「神の【本質】」、11・1では「保証」と訳されている言葉と同じです。確信と言うと、どこか私たちのうちに形成される強固な心という感じがしますが、そうではなく、神さまの内にある確かなもの、そのような神さまの実質、神さまの本質、神さまが保証してくださるもの、ということのようです。ある先生は、それは洗礼の恵みである、と言われていました。新改訳2017のように訳すと少し誤解を生むような気がしますが、共同訳2018では、上記の意味を表現しているように思います。
 私たちが、イエスさまを信じて洗礼の恵みにあずかったのは、私たちが心を柔らかくして、神さまの言葉を受け入れたからですね。そのような柔らかい心を「終わりまでしっかりと保つなら、キリストにあずかる者となる」、あるいは、柔らかい心をもってキリストにあずかる者となったのだから、その柔らかい心を終わりまでしっかり保ちましょう、というのです。

 柔らかい心、というと、なにかふにゃふにゃとしてつかみどころのない、いい加減なもの、という感じもします。しかしイエスさまという確かなお方が私たちの土台なので、いい加減な者であるということではありません。よく撓(しな)る竹のようなものです。土台がしっかりしているので、柔らかく撓ることができるのです。土台がしっかりしていないと、撓ることができず、結局倒れてしまいます。イエスさまにしっかりとつながっていないと、柔らかく撓ることができないので、どこまでも自分に固執し続け、結果的に「今日」語られる神さまの言葉に聞き従うことができなくなってしまいます。そうして平安を失ってしまうのです。
 心を柔らかくして、健やかに、喜びと感謝をもってイエスさまの御声に聞き従う者でありたいと思います。