主の宝の民となる

静まりの時 2022年7月5日(火)
申命記26・16~19

「今日、あなたの神、主は、これらの掟と定めを行うように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、いのちを尽くして、それを守り行いなさい。あなたは今日、この主をあなたの神とし、主の道に歩み、主の掟と命令と定めを守り、御声に聞き従うと誓約した。
 今日、主は、あなたに約束したとおり、あなたが主のすべての命令を守り主の宝の民となること、あなたを、主が造られたすべての国々の上に高く上げて栄誉と名声と栄えとし、約束のとおり、あなたが、あなたの神、主の聖なる民となることを誓約されたのである。」
(申命記26・16~19、新改訳2017)

 少し文意が分かりにくいので、共同訳2018であらためて読んでみます。

「【主の聖なる民】
 今日、あなたの神、主は、これらの掟と法を行うように、あなたに命じておられる。あなたはそれを、心を尽くし、魂を尽くして守り行わなければならない。
 今日あなたは、
『主を神とし、主の道を歩み、その掟と戒めと法を守り、その声に聞き従います』
 と明言したので、主も、今日あなたに向かってこう宣言された。
『あなたに告げたように、あなたは主の宝の民となり、すべての戒めを守る。
 主はあなたに賛美と名声と誉れを与えて、主が造られたすべての国民の上に高く上げる。
 あなたは、主があなたに告げたように、あなたの神、主の聖なる民となる。』」

 新共同訳では

「【神の民】
 今日、あなたの神、主はあなたに、これらの掟と法を行うように命じられる。あなたは心を尽くし、魂を尽くして、それを忠実に守りなさい。
 今日、あなたは誓約した。『主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聞き従います』と。
 主もまた、今日、あなたに誓約された。
『既に約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう。
 造ったあらゆる国民にはるかにまさるものとし、あなたに賛美と名声と誉れを与え、既に約束したとおり、あなたをあなたの神、主の聖なる民にする』と。」

 こうしてみると、神さまの命令 → 私たちの誓約(共同訳2018では「明言」) → 神さまの誓約(共同訳2018では「宣言」)という順序があるように読めます。聖書の言葉が告げられ、私たちはそれを学び、理解し、同意し従っていく。そこに神さまからの祝福の約束が実現していく、という風にです。

 しかしここで考えさせられるのは、私たちは神さまの命令に従うことができるのだろうか、従い得る力を私たちは兼ね備えているのだろうか、という疑問です。最初の人アダムとエバが罪を犯したことや、自分自身の姿から考えてみると、人間にはそのような力がない、というのが実情なのだと思いますが、いかがでしょうか。
 では上記のように、私たちが神さまの命令に従うならば、神さまの祝福を受けることができる、ということであれば、私たちはどうあがいても従い得ないのですから、そこには絶望しかない、ということでしょう。

 そこであらためて、共同訳の神さまの誓約(宣言)の部分を読んでみたいと思います。

「あなたに告げたように、あなたは主の宝の民となり、すべての戒めを守る。
 主はあなたに賛美と名声と誉れを与えて、主が造られたすべての国民の上に高く上げる。
 あなたは、主があなたに告げたように、あなたの神、主の聖なる民となる。」

 新改訳では少し分かりにくいのですが、この共同訳2018をみると、神さまが誓約、あるいは宣言されたのは、(1)「主の宝の民となる」こと、(2)「すべての戒めを守る」こと。(3)「賛美を名声と誉れを与え、すべての国民の上に高く上げる」こと、そして(4)「主の聖なる民となる」こと、でした。
 ここで(1)や(2)を、主が宣言されている、誓約されているということに注目してみたいと思います。
 「主の宝の民と【なる】」という言葉ですが、「なる」というのですから、その主語は「イスラエル」のはずです。しかしここで宣言されているのは、神さまです。
 たとえば、子どもが、ぼくはサッカー選手になる、というのは分かりますが、お父さんが、私の子どもはサッカー選手になる、と言った場合、どんな印象を受けるでしょうか。
 子どもが自分から「ぼくはサッカー選手に【なる】」というのでもなく、父が「私の子どもをサッカー選手に【する】」というのとも違います。父が、子どもに向かって「私の子どもはサッカー選手に【なる】」というのです。私はそこに、子どもが夢を抱いて胸膨らませている姿と、そのような子どもに一所懸命答えようとしている父の愛を思います。父が強制的に子どもをサッカー選手に【する】と言っているのではありません。子どもがサッカー選手になろうと夢を抱いている、その道を全力をもってサポートしようと決意している、その道を子どもと一緒に歩もうと、父の方も夢を抱いている、そんな輝きを想像します。
 それと同じように、ここで誓約するイスラエルと神さまの姿の中に、そんな輝きを想像します。それは今日、私たちが礼拝において使徒信条を告白する姿、そしてそれを受け止めていてくださる神さまのお姿にも重なるのではないでしょうか。私たちが「我は信ず」と告白する時、全力傾けてその信仰をサポートしともに歩もうと決意していてくださる神さまの愛がそこにあるのです。
 (2)の「すべての戒めを守る」と、神さまご自身が誓約し宣言しておられることにも、上記と同様に、人間の希望と神さまの愛が交差しているように思います。

 神さまは、私たちが条件を守ればそれの見返りとして祝福を与えるといった法則や機械のようなお方ではありません。私たちを人格的存在として大切に扱って下さる、人格的な神さまなのです。
 そのような神さまが今日も私たちと一緒に歩んでくださいます。