困窮している人と貧しい人には

静まりの時 2022年6月30日(木)
申命記15・7~11

「あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。」

(申命記15・11、新改訳2017)

 申命記15章1節からは「負債の免除」について記されています。「あなたは七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない」(1)。その文脈の中に今朝の箇所が記されています。共同訳2018での表題は「貧しい同胞」。「貧しい同胞に対してあなたの心を頑なにしてはならない。また手を閉ざしてはならない」(7)。
 記された理由は9節から想像できるのではないでしょうか。

「あなたは心によこしまな考えを抱き、『第七年、免除の年が近づいた』と言って、貧しい同胞に物惜しみして、何も与えないことのないように気をつけなさい。」(9)。

 もうすぐ第七年となる。その第七年の免除の年となれば、貸したものはすべて返済が免除となる。貸したものは返ってこない。それでは損だ。ここはひとつ貸さないでおこう。あるいは貸すとしてもできるだけ少額にしよう、との損得勘定が働く。そういった事態が予測されたということでしょう。あるいはすでにそういうことが起こっていたのかもしれません。
 申命記は、これから入って行こうとする約束の土地でどのように暮らしていけばよいのか。互いに平和に暮らすためには、どうすることがふさわしいのか。罪びとであることが想定されて、いくつもの命令、ルールが記されていきます。聖書は、人間は罪人であることを前提としています。その罪びとを神さまが愛しておられる、と語っているのが聖書です。ですから聖書には命令やルールが記されているのです。愛しておられなければ、ルールも与えられません。ほったらかしでしょう。命令されるということは、そこに愛があるのです。

 一つの檻に、ライオンと狼と羊と鶏を入れて、さあ自由に暮らしてくださいね、お祈りしています、といって檻に蓋をしてその場を去ってしまっては、檻の中に残るのはライオンだけになるでしょうか。それは自由を与えたように見えますが、ただ責任を放棄しただけですね。
 人間は罪びとであること、そして人間は一人ひとり違った存在であり、その考え方も賜物もすべて違いを持っている、そのことを共同体が許容して行くとすれば、必ずルールが必要なのです。そしてそのルールが守られるためには、ルールが守られるための「力」が必要となって来ます。ライオンをも従わせることのできる力です。
 檻の中に入れた人がライオンにまさる力を持っていればそれが抑止力となって良いのかもしれませんが、それには限界がありますし、いつかライオンが檻の中に入れた人間の力をしのぐかもしれません。結局「力」に依存して抑止力を期待するということでは、なかなか脅威が無くならないような気もしてきます。

「その人があなたのことで主に叫ぶなら、あなたは罪責を負うことになる。必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。」(9b、10)

 神さまへの信仰、信頼が、その根底にあれば、ルールが守られ、互いに幸せに生きることができる、ということでしょう。ルールを守られることが、ルールを守る者自身の幸せとなるということでしょう。
 神さまを愛するということは、神さまの語られたお言葉に従って生きるということです。

 さて、今日生きるキリスト者は、旧約聖書で語られた神さまの命令を、いわゆる文字通り守るということをしているわけではありません。それはまことの言葉であるイエスさまが来られたからです。私たちは、このキリストの言葉である、十字架の言葉、復活において語られた神さまの愛の言葉を大切に聞く者となりました。
 貧しい者への援助を惜しまないとすれば、それはイエスさまへの愛によってなすこととなりました。
 ちなみに、相互扶助ですが、社会福祉が現代のような状況ではない古代社会においてはとても大切なことだったのだと思います。現代の日本では、税や公的年金、健康保険料等という形で、相互扶助の実現に近づこうとしている部分があり、感謝だな、と思うことがあります。このような社会の仕組みを作って下さった方々に感謝しています。