静まりの時 2022年7月1日(金)
ガラテヤ6・1~10
「1 兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
3 だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。
4 それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。
5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。6 みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。
7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
9 失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。
10 ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。」(ガラテヤ6・1~10、新改訳2017)
ガラテヤ5・25からを読むと、
「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。」
(5・25,26)
「御霊によって生きている」私たちは、「御霊によって進もう」、御霊によって進むとは「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしない」ことである、とパウロは語りました。互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりすることは、うぬぼれていること、である、というのです。うぬぼれるということは、漢字では自惚れると書きます。広辞苑には「自分で自分を(実際以上に)すぐれていると思う。自負する」とありました。それは御霊によって進んでいることではない、というのです。
今朝の箇所には「御霊の人」という言葉が出てきます。御霊によって生きている私たち、御霊の人であるあなたがた。イエスさまを信じて新しく生き始めた人は、すべての人が御霊の人です。父と子と聖霊の名によって洗礼を授けていただいた人は、例外なく御霊の人なのです。
御霊の人とはどのような人であるのか。まずは、自惚れない人である、ということでしょう。さらには、
- もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、柔和な心でその人を正してあげる人(1)。
- 自分自身も誘惑に陥らないように気をつける人(1)。
- 互いの重荷を負い合う人(2)。
- 自分が特別な者であるとは思わない人(3)。
- 誇らない人(4)。
- 自分自身の重荷を負う人(5)。
- 御言葉を土台として、分かち合う人(6)。
- 失望せずに善を行う人(9)。
- すべての人に、特に信仰の家族に善を行う人(10)。
御霊の人とは、柔和な人、聖さを求めている人、苦しみの中にある隣人のために祈る人、謙遜な人、自分の人生の課題を誠実に担おうとしている人、聖書の言葉を第一にしようとする人、希望をもって善を行う人、教会の交わりの中にあって平和に生きようとする人。
律法主義に陥ったガラテヤの信徒に対して、律法主義ではなくイエスさまの恵みによって生きなさい、とパウロが書き送った手紙が、このガラテヤ人への手紙です。恵みによって生きるということは、御霊の人として生きるということです。御霊の人として生きるということは、まことの人として健やかに生きることであり、それは隣人との平和に生きる道をひらきます。