静まりの時 2022年6月29日(水)
申命記10・12~22
「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。」
(申命記10・16、新改訳2017)
割礼は、神の民の証しとして行うように神さまがアブラハムに命じられた大切な戒めの一つでした。今日もユダヤ民族であることの証しとして行われているようです。神さまがアブラハムに対して命令されたときは、神の民であることの象徴だったのだと思いますが、新約の時代となり異邦人の救いが前進すると、割礼は、ユダヤ民族の象徴となりました。割礼があるかないかで神の民であるかないかが区別されるのではなく、イエスさまを信じているかいないかで神の民が明らかにされることになりました。具体的には割礼は、洗礼に代わったと理解してよいのだと思います。
その割礼ですが、この個所には「心の割礼」の大切さが語られています。かたちとして割礼をすることも大切だけれども、それ以上に「心の割礼」が大事なのだ、と言うのです。心の割礼とは何か。それは
「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。
それは、ただあなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる、主の命令と掟を守ることである。
見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫であるあなたがたを、あらゆる民の中から選ばれた。今日のとおりである。」(申命記10・12~15)
まず神さまを愛すること。そしてそれに先立ち神さまがまず愛してくださったと聖書は語ります。
そしてもう一つは、
「あなたがたの神、主は神の神、主の主、偉大で力があり、恐ろしい神。えこひいきをせず、賄賂を取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられる。
あなたがたは寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。
あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。主にすがり、御名によって誓いなさい。この方こそあなたの賛美、この方こそあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大いなる恐るべきことを、あなたのために行われた方である。あなたの父祖たちは七十人でエジプトへ下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを空の星のように多くされた。」(申命記10・17~22)
寄留者を愛すること。すなわち隣人への愛に生きよ、と聖書は語ります。そしてそれこそが、神を恐れ、神に仕えることであると、続きます。すでに神さまはあなたがたをその愛の中に置いていてくださった、そしていまも神さまの愛の御手の中にあるあなたがたではないかと語るのです。
神さまの愛の中に生かされてきた、今も、これからもそうである、だから神さまを愛そう、隣人への愛に生きようと語るのです。それが心の割礼だ、割礼を受けた者の生き方だ、かたちだけの割礼ではなく、心の包皮に割礼を施しなさい、と聖書は語ります。
「もう、うなじを固くする者であってはならない。」(16)
共同訳では「かたくなになってはならない」、協会訳の口語訳で「強情であってはならない」。
「はなむけ」という言葉があります。希望をもって出発する人への激励の言葉として語られるのだと思います。「はなむけ」は漢字では「餞」。「餞別」(せんべつ)の「餞」です。お餞別、というと、大抵はお金を指して言う言葉になっていますが、もともとは、この「はなむけ」を意味していたのでしょう。新しく出発するその先に幸多かれとの祈り、また良い道に、確かな道に出発できるように、指針めいた言葉や先輩から「このように歩めばいいよ」みたいなことが語られる場合が多いのだと思います。
もともと「はなむけ」は「『馬の鼻向け』の意。旅立つ人の馬の鼻を行くべき方へ向けて見送った習慣による」(広辞苑)から生まれた言葉である、と説明があります。馬を歩ませたい方向に向けるためには、その鼻面(はなづら)を、歩ませたい方向に向けることがまず大切なことである、ということでしょう。一所懸命馬の身体を動かそうとしても動かせないのですが、鼻面、鼻先、それに結ばれている「手綱」を、向かわせたい方向に向けると、よく訓練された馬は、その通りに進んでいく、というのでしょう。
ところが馬の中には、その通りに進んでくれないのがいるということなのだと思います。手綱を引っ張って鼻面を向けようとしても「うなじ」を固くする馬がいるのでしょう。かえって逆の方に力をこめる馬もいるのでしょう。神さまが導いていてくださる。その導きにこそ幸いがあるのですが、イスラエルの民は、いつも「うなじを固く」してしまうのです。それが聖書の語る罪なのだと思います。イスラエルの民だけではなく、人間はいつもそうなのだと思います。
「かたくなになる」「強情である」ということと、「信念を持って生きる」「忍耐をもってビジョンに向かって進む」ということとは、ちょっとよく似ているように見えますが、全く違うものなのだと思います。前者は自分への固執が生み出すものですが、後者は神さまへの信仰が生み出すものなのだと思います。
うなじを柔らかくすることが、神さまを愛し隣人を愛する道へと私たちを導きます。それこそ幸いの道であると聖書は語ります。きょうもうなじを柔らかくし、神さまが導いてくださる道に軽やかな心をもって導かれていきたいと思います。
蛇足ですが、新約聖書のパウロもペテロも、もともとはうなじの硬い人たちだったと思いますが、イエスさまに改めてお出会いし、うなじのやわらかい人生を歩んだのだと思います。律法主義者であったパウロは、イエスさまにお出会いし救われてからは、割礼など律法主義に対して真っ向から反対する人になりましたが、前にも書きましたが、使徒16章3節を見るとそのパウロがテモテに割礼を施しています。ペテロは、異邦人を受け入れるために神さまから幻を見せていただきましたが、出会う相手によって態度を変えているとパウロに厳しくとがめられています(ガラテヤ2・11~)。それは確かに優柔不断だったのかもしれません。しかしもしかするとペテロにとって主義主張はどうでもよいことだったのかもしれません。目の前の人への愛に生きるために、優柔不断と非難されることがあったとしてもそれをあまんじて受けたのではないか、との想像もゆるされるのではないでしょうか。いずれもうなじの柔らかい人たちだったのではないかと想像しています。天国でお会いするのが楽しみですね。「そんなことあったかいな~」と言われそうな気がしますが。