子どもたちを来させなさい

静まりの時 2022年5月5日(木)
マタイ19・13~15

「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。しかし、イエスは言われた。『子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。』そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。」

(マタイ19・13~15、新改訳2017)

 イエスさまは、連れてこられた子どもたちの上に手を置いて祈ってくださいました。イエスさまは子どもたちを祝福してくださるお方です。
 弟子たちは、子どもたちを連れて来た人たち。おそらくその両親や家族たちでしょう。彼らを叱りました。イエスさまは忙しいのだ、分別を弁えなさい、いまはそのようなことに時間を費やしている時ではない、何を厚かましい、という感じでしょうか。
 子どもたちは連れて来られただけです。何もわからずに、今日はイエスさまに祝福していただこう、さあ行こう、と言われて、連れて来られたということです。大人たちに従って連れて来られたら、その大人たちが弟子たちに叱られてしまった。子どもたちなりに、大人の社会の複雑さを感じたかもしれません。緊張が走ります。
 そんな時イエスさまが優しく語ってくださいました。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです」と。

 この「子どもたちを来させなさい」は、共同訳2018では「子どもたちをそのままにしておきなさい」と訳されています。原文では「去らせる、放棄する、そのままにしておく、ゆるす」というような意味だそうです。
 文脈からは、当然、子どもたちがご自分のところに来ることへの許しの言葉だと思います。ですからそれを阻もうとした弟子たちへの戒めであり、連れて来た人たちへの許可の言葉です。しかし原文にこだわるとすれば、少し想像が膨らみます。
 もともと子どもたちは連れてこられただけであって、子どもたち自身に祝福されたいとの意志があったわけではありません。そのような子どもたちを祝福してほしいとの願いをもって連れて来たのは大人たちです。そこで「子どもたちを自由にしてあげなさい」ということになると、この連れて来た人たちのほうにも「自由にしてあげなさい」と語られたようにも思えてきます。それは子どもたちを祝福してほしいというあなたがたの願いからも子どもたちを自由にしてあげなさい、と。

 そのうえでイエスさまは「天の御国はこのような者たちのものなのです」と言われ、手を置いて祝福してくださいました。それは、その道を阻もうとする弟子たちはもとより、祝福してほしいと願う親たちの願いをも超えて、神さまご自身が子どもたちを祝福したいと願っておられることが明らかにされているように思えます。人間が祝福を願おうが願うまいが、神さまは子どもたちを祝福したいと願っている、との言葉にも聞こえてきます。

 神さまはすべての子どもたちを祝福したいと願っていてくださるのです。たとえこの地上でだれも祝福を願う者がいないかに見えても、神さまは子どもたちに祝福の御手を置いてくださるのです。教会は、そのような神さまの御心を、私たちの心として、子どもたちの祝福を祈るところです。ですから教会は、すべての子どもたちのために、その祝福を祈ります。