産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた

静まりの時 2022年5月4日(水)
出エジプト1・15~21

「・・・助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。・・・」

(出エジプト1・21、新改訳2017)

 この「神を恐れた」と17節の「神を恐れ」は、新共同訳2018ではいずれも「畏れ」の漢字が使われています。

 カルデヤのウル(現代のイラク?)にいたアブラハム(アブラム)は、神さまに召され、神さまの示された土地に移住しました。そこでアブラハムの子孫は、息子イサク、その息子ヤコブと代が続き増えて行きました。ヤコブはイスラエルと呼ばれることになり、またその民もイスラエルと呼ばれるようになります。繁栄の道を前進するかに見えたイスラエルの人びとでしたが、世界的な飢饉が起こり、いろいろあってエジプトに移住することになります。イスラエル人はエジプトの地においても増え広がり強くなりました。やがてイスラエルの人びとは、エジプトの地で奴隷の扱いを受けるようになりました。
 過去のことを知らない王がエジプトに生まれると、王はイスラエルの人びとを苦しめ始めます。しかし苦しめれば苦しめるほどイスラエルの人びとはますます増え広がりました。その姿にエジプトの人びとはますますイスラエルの人びとを恐れるようになりました。エジプトの王は、ヘブル人の助産婦に「出産を助ける時に、生まれて来た子が男の子ならば殺せ」と、民族浄化ともいえる命令を出します。

 しかし命令を受けた助産婦は「エジプトの王が命じたとおりにしないないで、男の子を生かしておいた」のです。それは彼女たちが「神を恐れ」ていたからである、と聖書は語ります。
 当時、その世界の王といってもよいエジプトの王の命令に従わないということが、どのようなことであったのか。絶対的な権力の前にも、何が義であるかを見失わない助産婦たち。彼女たちには、神さまへの畏れがあり信仰がありました。
 この世の権力やさまざまなものは、私たちを恐れさせます。しかし本当におそれなければならないお方への畏れを確かにするならば、もはやこの世に恐れるものはありません。

 王は男の子を生かしておく助産師たちを呼びつけ問います。その問いに彼女たちは答えました。「ヘブル人の女性は、エジプト人と違って元気なんですよ。私たちがかけつける前に出産してしまうんです。どうしようもありません」と。これで王を納得させることができると考えたのでしょうか。私には彼女たちのユーモアのようにも思えてきます。神をおそれる者にはつねに余裕があり、そこからはユーモアが生まれてきます。それで王は、男の子が生まれたならばナイル川に投げ込め、との命令を出しました。これがまたモーセを誕生させる道へと続いていきます。神さまのなさることは、転んでもただでは起きない、といいますか、人が悪の道を作っても、またそれを善に変える・・・。神さまのなさることは私たちの思いを超えています。

 神さまはこの助産婦たちを、そしてその家を、繁栄させてくださいました。神さまをおそれることが、その時の風潮や圧力を超えて、何が善で何が悪かを見極める判断力と行動力を生みだし、結果、この世界での祝福の道を開きました。

 教会で音響の奉仕をしてくださる兄弟のお母さんは前任の教会に通われていて、ながく助産師として社会に仕えて来られました。私たちの一番下の子は、生まれたばかりのころ、この方にときおりお風呂に入れていただきました。滋賀県の助産師協会の会長をされたこともあり、あるとき何かの会合であいさつ(スピーチ)をすることになって、そのとき、私に「先生、今度の挨拶の中で、あの出エジプト1章に記されている助産師たちのことを話そうかと思っています」と笑顔でお話しくださいました。いのちを扱う助産師を前にして、まことにおそれなければならないお方のことを伝えようとなさったのだと想像しうれしくなりました。

 神さまをおそれるキリスト者たちによって、いまも幼い子どもたちのいのちが守られています。熊本・慈恵病院のこうのとりのゆりかご、神戸・マナ助産院の小さないのちのドアなどなど、その他さまざまな取り組みが世界においてなされています。お働きの祝福を祈りつつ。

 昨日は、早朝から、教会の芝生エリアの除草作業が行われ幾人もの兄弟姉妹がご奉仕くださいました。また明日から始まるオープンガーデンのために、ジャーマンアイリスの鉢の搬入作業も行われました。和気あいあいと楽しい作業風景でした。お疲れさまでした。

PXL_20220503_204118129PXL_20220503_204130595PXL_20220503_204201598PXL_20220503_204254554PXL_20220503_000733922