静まりの時 2022年5月6日(金)
エゼキエル18・14~20
「罪を犯したたましいが死ぬのであり、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい人の義はその人の上にあり、悪しき者の悪はその者の上にある。」
(エゼキエル18・20、新改訳2017)
あるときイエスさまに弟子たちが尋ねた言葉が思い起こされます。
「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。『先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。』」(ヨハネ9・1,2)
旧約聖書のエゼキエル書において上記のように記されてますので、親の罪がその子に報いる、という考え方は、旧約聖書の考え方ではない、といっていいと思います。にもかかわらずユダヤ人である弟子たちから、このヨハネの福音書9章のような問いが生まれるということは、そもそもこのような考え方は、人間がもともと持っている考え方なのかもしれません。あるいは罪びとである人間は、このように考えずにはいられない、ということかもしれません。
罪の責任所在は、罪を犯した者のみにあるのであって、その子や、逆にその親などに負わせてはいけない、ということでしょう。私たちの世界は、何も対策をしないでいると、罪の責任を、その家族に負わせてしまうことになる危うさを持っているということでしょう。
犯罪を犯した人の親が、テレビの前で謝罪している姿が放映されていることもありました。犯罪を犯した人の家族が、そののち社会から大きな苦しみを背負わさていることもあるようです。昨年の暮れから年明けにかけて、NHKで『生きて、ふたたび 保護司・深谷善輔』というドラマが放映されていて、欠かさず視ていたのですが、いろいろと考えさせられることでした。
生まれてくる子どもは、親や環境を選べません。紛争地帯に生を受ける子どももいれば、安全で豊かな環境の中に生まれる子どももいます。親の都合で、子どもの成長に重大な影を落とすこともあります。
「自己責任」ということも場面によっては理解できないわけではありませんが、環境の違いもさることながら、心身に違いを持って生まれてくる子どもたちの現実を考えると、自己責任論は破綻していると思います。
自分がこうして今生かされていることを思うと、子どもたちには夢と希望を持って人生に出発してほしいと願います。そのために良い社会を築いていく責任が自分にも大いにあるのだと思います。子どもたちの学費や養育費については、社会が完全に保証するといいのではないかと思えてきます。ヤングケアラーの問題も社会全体で考え解決していくということも、咎ということでは全く関係がありませんが、この聖句の心を実践することになるような気がします。
Jバイブルという聖書のソフトがありますが、先日そのソフトのギリシャ語本文(ほんもん)を眺めていると、単語が一つ抜けているところを発見して、なにか重大なものを発見したような気分になり、さっそくサポートセンターにメールをしました。すぐに対応をしてくださいました。すばらしい!。対応といっても、すでに数年前に修正ファイルがアップロードされていて、そちらをダウンロードしてインストールしてください、ということでした。サポートセンターは牧師たちが半ばボランティアで運営していると想像しますので、お忙しい先生たちをお騒がせしてちょっと恐縮です。結局、私の使用頻度の低さが明らかになっただけでしたね。罪滅ぼしになるか分かりませんが、共同訳2018のソフトをそのサイトから購入することにしました。