静まりの時 2022年5月3日(火)
箴言1・1~15
「主を恐れることは知識の初め。
愚か者は知恵と訓戒を蔑む。
わが子よ、父の訓戒に聞き従え。
母の教えを捨ててはならない。」
(箴言1・7,8、新改訳2017)
新共同訳2018では
「主を畏れることは知識の初め。
無知な者は知恵も諭しも侮る。
子よ。父の諭しをきけ。
母の教えをおろそかにするな。」
(箴言1・7,8、共同訳2018)
恐れと畏れ。恐れはこわがること。畏れはかしこまること、大事にすること。微妙に違いがあります。
原文のヘブル語では、この7節の単語の順序としては、最初に「おそれる」という言葉が置かれています。「おそれよ」「主を」それが「最初の知識だ」といった感じでしょうか。
「恐れ」は私たちを縛ります。それに対して「畏れ」は私たちを自由にするように思います。エデンの園で、神さまが採って食べてはならないと言われた木の実の戒めも、神さまを「畏れ」ていた時には、その戒めは、何不自由ないエデンの園において、神さまを大切にする道をアダムとエバに与えました。その他の木の実は何を採って食べても自由だったのですから。しかし神さまを「恐れ」たとたん、神さまの言葉は自分たちを縛るものとなったのだと思います。そしてそこから自由になりたいとの思いから、戒めを破り、かえって不自由になりました。
暗闇の中を自由に歩けと言われるとどこに柱があり落とし穴があるか分からないので、不自由でしょう。しかし私を愛してくださる方がしっかりと手を握ってくれているならば、暗闇の中でも自由になります。神さまが今日も私の手を握っていてくださる、と思うと安心です。暗闇の中にあることを忘れ、神さまに手を握っていてくださることを束縛と感じ、自由を求めてその手から逃れてしまった近現代の私たちは、かえって不自由になりました。
聖書は知恵と訓戒の宝庫です。しかしそれが本当に私を生かすためには、まず神さまを畏れること、すなわち神さまへの信仰が前提となります。聖書を読んでキリスト教の教理への知識が深まり、そうして神さまへの信仰が生まれるというのではなく、まず信仰を持つ、神さまを愛する、そのうえで聖書を読む、そうして神さまへの愛が深まっていく、ということです。
「知識の初め」。知識とは「理解、認知、技術」という意味があるそうです。メタ認知、といった感じ。それに対して「愚か者は知恵と訓戒を蔑む」の知恵は、「知恵、知性、技量、思慮」、訓戒は「懲らしめ、訓戒、矯正、訓練」。具体的な教えの数々。神さまをおそれる、という土台の上にさまざまな知恵や訓戒が積み上げられていく。そうでなければどんな知恵や訓戒も、人を生かすことにならない、ということでしょう。
知恵や知識がないことが、愚かということではありません。どんなに知恵や知識があっても、神さまをおそれることがない、ということが私たちを愚かにするのです。
また神さまをおそれるということがなければ、結局、知恵や訓戒を、大事にしない者になってしまいます。
この神さまをおそれることにはじまる知識、知恵、訓戒が語られたすぐ後に、「わが子よ、父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない」とつづきます。
神さまからの知恵に従って生きるならば、この世の教えはもはや不必要である、というのではありません。神さまをおそれて神さまからの教えによって生きるということは、すなわち父や母からの教えに耳を傾けて生きることでもある、と語ります。
父や母は、この場合、両親という意味もあるかもしれませんが、それ以上に先祖、祖先、父祖、という意味、さらにはイスラエルの伝統、慣習や祭りの中に織り込まれている先祖の知恵、なども指すのでしょう。
今度の日曜日は母の日。「母」から生まれなかった人はこの世界に一人もいません。すでに天国に見送った母も含めて、少し母への感謝とその教えを思い起こしてもよいのかもしれません。