このような子どもたちの一人を

静まりの時 2022年5月2日(月)
マルコ9・33~37

「・・・それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。『だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。』」

(マルコ9・36、37、新改訳2017)

 「人の子は人々の手に引き渡され、殺される・・・」(9・31)。イエスさまは道々ご自身が十字架に架かることを弟子たちに告げられます。しかし弟子たちはそのことが理解できません。理解できないどころか、弟子たちは道々、誰が一番偉いかと論じ合っていました。イエスさまはその弟子たちに尋ねられました。「来る途中、何を論じ合っていたのか」。
 「来る途中」。原文では「道(ホドス)の途中で」。新改訳第3版、共同訳2018では「道」という言葉を使って訳しています。
 この「道」という言葉には「生き方」という意味もあります。(例えばマルコ12・14「神の道」など)。私たちは人生の道、その途上でいったい何を考えているのか。何をテーマに生きているのか。もしそれが「誰が一番偉いか」ということであったら、「自分は偉いだろうか」「自分は偉大なものとして扱われているだろうか」ということであったとしたら・・・。そんな生きにくい人生はないのではないかと思います。
 イエスさまに問いに弟子たちは「黙っていた」といいます。「イエスさま、私たちは、誰が一番偉いかと論じ合っていたのですよ~」とは言えなかった、ということでしょう。自分たちの論じ合っていたことが、決してイエスさまのお喜びになることではない、と心のどこかで分かっていて恐れたのだと思います。自分の考えていることを、イエスさまに自由に話すことができないということは、やっぱりおかしなことが起こっているということですね。

 イエスさまは、弟子たちが何を論じあっていたのか分からなかったので、問われたのではありませんでした。弟子たちが何を論じあっていたのかは、イエスさまはご存じでした。イエスさまは何でもお見通しですね。ではなぜ問われたのでしょう。もしかしたら正直に「誰が一番偉いかと論じ合っていました」といってほしかったのかもしれません。おずおずとでも、小さな声であっても、自分たちのありのままの姿を、告げてほしかったのかもしれません。

 弟子たちが何を論じあっていたのかをご存じのイエスさまは、お座りになって弟子たちを呼び、

「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」

と言われました。そして続いて、ひとりの子どもを弟子たちの真中に立たせて、

「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

と言われました。

 弟子たちが論じ合っていた「偉い」という言葉はギリシャ語で「メガス」。大きいという意味です(メガドンキーのメガの語源ですね)。一方イエスさまが言われた「先頭に」という言葉は「プロートス」。これは「第一の」とか「最初の」という意味です。「大きい」すなわち「量」を考えていた弟子たちに対して、イエスさまは「第一」すなわち「順序」を提案してくださったような気もしてきます。

 偉くなりない、などと考えてはいけない、と言われたのではなく、偉くなりたいと考えているのは、すなわち先頭に立ちたいということであろう、そうであれば、仕える者になりなさい、一体誰に仕えるのか、このような子どもに仕えるのだ、子どもを受け入れるのだ、それはそのまま私を受け入れることであり、父なる神さまを受け入れることなのだ、と言われたのだと思います。

 先頭に立つ、ということは決していいことばかりではありません。出エジプトを導くことになったモーセは、大きな責任に押しつぶされそうになったり、時に民から非難されたり、なかなか大変でした。その重責を全うすることができたのは、ひたすらしもべとして民に仕えるということを学んだからだと思います。
 国家もさまざまな共同体もしもべとして仕える人びとによって導かれるのだと思います。自分の大きさ、自分が太ることばかりを考えている指導者がいるところには戦いが絶えません。世界の平和を祈りたいと思います。

 ちなみに「イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた」の中の「腕に抱いて」は、両腕で抱く、という意味を持っています。抱きしめられた、という感じですね。この時の子どもの気持ちを想像すると、なんだか暖かな気持ちになります。

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教会近くの道路沿いの花壇。

今日は八十八夜だそうです。