静まりの時 2022年4月30日(土)
コロサイ1・24~29
「24 今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
25 私は神から委ねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、
26 すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。・・・」
(コロサイ1・24~26、新改訳2017)
コロサイ人への手紙は「私たち」で始まりましたが、ここから「私」となります。手紙は、パウロがパウロとともに立つ使徒団からの手紙という性質が大きいと思いますが、ここからはパウロ自身からの親書と理解できるのかもしれません。私たちも誰かと話しているときに、その立場の中で話す時は「私たちは」といいますが、その中でことさら自分自身のあつい思いや親しみを込めて語ろうとするとき「私は」といいます。
「キリストの苦しみの欠けたところ」。キリストの苦しみとは何よりも十字架のことでしょう。もちろん十字架の苦しみに欠けたところなどありません。十字架の苦しみは、私たちのためになされた完全な神さまの苦しみです。その一回限りの神さまの犠牲によって私たちは完全に救われました。
ではここでパウロは何を言おうとしているのでしょうか。
25、26節は、この新改訳2017では、少し原文どおりには訳していません。原文通りの訳として共同訳2018を以下に記します。
「25 私は、自分に与えられた神の計画に従って、教会に仕える者となりました。あなたがたに神の言葉を余すところなく伝えるためです。
26 永遠の昔から幾世代にもわたって隠されてきた秘義が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。」
25節の「伝えるためです」が、原文では25節にあるところ新改訳2017では26節の中に訳されています。
この言葉は「満たす」という意味の言葉で、24節の「満たす」という言葉と重なります。つまり苦しみの欠けたところを補っている、という意味は、パウロにとっては宣教のこととなります。十字架の苦しみが不十分だったのでいま自らが苦しむことによって補っている、という意味ではなく、むしろイエスさまの十字架の苦しみは完全な苦しみなのだが、自分はそれを世界に宣べ伝えることによって、その苦しみの一端に与っている、という意味ではないかと思います。
そしてあらためて25,26節を新改訳2017で読んでみます。
「あなたがたに神のことばを、すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。」
ここで「神のことば」とは「世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義」と説明しています。
この「奥義」とは、新共同訳では「秘められた計画」、共同訳2018では「秘義」と訳されていますが、原文では「ミュステリオン」、ラテン語になって「サクラメント」と訳されるようになる言葉です。ウルガタと呼ばれるラテン語聖書では、26節の奥義は「ミュステリウム(ミュステリオン)」と記され、27節の奥義は「サクラメンティ(サクラメント)」と記しています。両方を使っているのですね。
サクラメントとは、今では聖礼典のことを指して使われる言葉なのですが、少し想像を膨らませると、これはプロテスタントでいう洗礼と聖餐のことを指しているように思えてきます。もしその想像が許されるとすれば、パウロは、洗礼式を執行するとき、そして毎回の礼拝の中で聖餐式を行うときに、イエスさまの十字架の苦しみに与っている、ということを深く黙想していたのではないかと思えてきます。
聖餐のパンとぶどう汁に与るたびに、イエスさまの苦しみに自分もあずかっている、と思えば、それは何よりも「喜び」であることは想像に難(かた)くないとおもいます。
明日は5月第一の主の日ですので、先月から始まった聖餐式の黙想も予定されています。明日は「悔い改め」ということを中心に黙想しようかと思っています。イエスさまの十字架は、完全な苦しみですが、私たちもその苦しみに与り、そしてまた赦しに与るのです。それはまた喜びに与り満たされるときでもあります。
ちょっと今日はややこしいことをたくさん書いてしまいました。