祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた

静まりの時 2022年4月11日(月)

ルカ22・1~6

「1 さて、過越の祭りと言われる、種なしパンの祭りが近づいていた。

2 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた。彼らは民を恐れていたのである。

3 ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。

4 ユダは行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡すか相談した。

5 彼らは喜んで、ユダに金を与える約束をした。

6 ユダは承知し、群衆がいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会を狙っていた。」

(ルカ22・1~6、新改訳2017)

「祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた」。

この「良い方法を探していた」という言葉は、原文のギリシャ語では「探す、探し求める、探求する、熟考する、詮議する・・・」と言った意味で、「良い」という言葉はそこには含まれていません。ですから共同訳2018では「謀っていた」と訳されています。

ただ「良い」という言葉を含んで訳したところで、いろいろと思いめぐらせました。

人間はつねに「良い」ことを求めている、とスコラ神学者トマス・アクィナスは言ったとか。

良いというと、倫理道徳的に善いということをまず考えますが、私たちはいろんなところに「よい」という言葉を使います。「今日の朝食はパンにする、ご飯にする、どっちがいい?」といったときの「いい」すなわち「良い」は、自分のその時の気分や感情に合致しているかということでしょう。「お花見には自動車で行く、それとも電車で行く どっちがいい」といった場合の「いい」すなわち「良い」は、どちらの方法が便利か、あるいは利口かということでしょう。

この聖句では「イエスを殺すため」の「良い方法」を「探していた」というのです。私たちは「良い」ということを追求することによって、神さえ殺しかねない、あるいは神さまを殺すために良い道を探し求めてしまう罪人なのです。

昨日は運営役員会が行われました。この2月に行われた定期総会で女性の役員さんが選ばれました。私にとっては長年(といってもここに遣わされて10年ほどではありますが)の祈りでした。新鮮な意見が出て今まであんまり考えなかったことに焦点があてられたり、また話し合いの道に新しい景色が生まれると言いますが、本当に感謝しました。

初代教会は、その男尊女卑の時代にあって女性執事の存在が語られるほど人権感覚に先進的です。

先日ハラスメントのセミナーを受けましたが、そのことで図書館から借りて読んだ本の中で、集団が均質群であるとハラスメントが起こりやすい、あるいはハラスメントが見過ごされやすい、というようなことが記されていました。

『ドリーム』(原題: Hidden Figures)という映画があります。1960年代東西冷戦の中のアメリカで、宇宙開発に中心的にかかわった3人の黒人女性の伝記的物語です。天才的な数学の能力を持つキャサリンは、周回軌道を終えた宇宙船を帰還させるために逆噴射をするタイミングを計算し、当時最先端であったIBMのコンピューターよりも優れた結果を出した、ということがドラマチックに描かれていました。しかし当初その計算グループは国防省の厳重な管理の中にあって、まず男性しかいません。しかも黒人はひとりもいません。その中に一人黒人女性が入るのです。トイレも白人専用のものしかありませんので、ずいぶん離れた建物にその都度行かなければなりません。ケビン・コスナー演じるそのチームのリーダがあるときキャサリンに尋ねます。「君は、仕事中にしばしば長時間、席を離れているが、一体どこに行っているんだ?」。彼女は答えます。「この棟には非白人である私が利用することのできるトイレがないのです」。均質群が破られたとき、新しい発見が生まれました。

教会は半数強が女性ですから、役員会もその比率にするのが良いことであると私は思っています。それと同時に、これは宗教法人法の関係もありますが、親族がある比率以上を占めるということもよくないことですから、わずか6人の役員会なので、その中に同一家族がいないようにするということも、均質群を避けることかなと思っています。

と、長々と横道に反れましたが、役員会をはじめいろいろな話し合いの場面でも、また自分自身が人生の岐路に立って、どの道が「良い道」であろうかと迷うとき、罪びとである自分は、良いと称して神を殺す道を選択する可能性がある、ということをわきまえ知っておきたいと思います。イエスさまは、人間がその時のさまざまな意味での「良い道」を選択した結果、殺されなさったのです。

 「ユダは承知し、群衆がいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会を狙っていた」。

12弟子のひとりイスカリオテのユダは、ここで自らがイエスさまを裏切る道を選択します。ユダは「群衆がいないとき」に、と機会を狙っています。しかし47節に、

「イエスがまだ話をしておられるうちに、見よ、群衆がやって来た。十二人の一人で、ユダという者が先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして近づいた。」

驚くべきことに、ユダは、群衆のいないときに、といっていながら、群衆と共にやって来ているのです。いったいどういうことでしょうか。私はここにユダの計画を超えて、神さまの計画が進んでいることを思います。

人間が計画する、ときに「善」に反する道も、神さまはその創造の御手をもってご自身の道に導いてくださることが可能である。あるいはそうすることを願っていてくださる。もちろん、どんなに悪の道に歩んでも自動的に神さまの善の道に歩むことができる、などということはありません。しかし私たちが自分なりに善と思って選択したけれども、そこにいろいろな問題も起こって来ます。それでも、自らの計画を超えた神さまの力強い御手がそこに在ることを忘れないでおこうと思いました。

昨日は三回目のワクチン接種の影響もあってか、朝一番の血圧測定で、下が130を超えていて、脈拍も100近くに上がっていました。説教は何とかこなしたのですが、祝祷の前に少しふらついてしまいました。それに気づいてメールを下さった方もおられて感謝します。振り返ると、上記のような状況に加えて、ここしばらく妻とともに悩むことがつづいていて、そいうことも関係しているかもしれません。しかし、ちょっと違うことを考えてしまった、ということもあったような気もします。

最近、どんなに足りない牧師でも、どこまでも牧師のサイドに立って発言して下さった方、またどんなに失敗したり、足りない発言があっても、その意味を汲みとって受け止めてくださったり逆に励ましてくださる方々がいてくださったことを振り返りつつ恵まれていたのだな、と感謝しています。