静まりの時 2022年4月9日(土)
第一ペテロ1・3~9
「・・・そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。・・・」
(第一ペテロ1・6,7、新改訳2017)
聖書の語る「喜び」あるいは「称賛」「栄光」「誉れ」は「さまざまな試練の中で悲しまなければならない」という「悲しみ」がそこに内包されているのです。悲しみはあるけれども、喜びもある、ということではなく、喜び自体の中に悲しみが必要条件として内包されているということです。悲しみを経験しない喜びや称賛、栄光は、聖書の語るものではない、あるいはそれ自体偽物である、ということでしょう。
この「悲しみ」と訳された言葉、新共同訳や共同訳2018では「悩まなければならない」と訳しています。原文では「苦しめる、悲しませる、悲しんでいる、悲しくなる」あるいは「傷つけられる」という意味を汲みだそうとしているものもありました。
悲しみと苦しみ。
C・S・ルイスがその著『悲しみをみつめて』の冒頭で
「だれひとり、悲しみがこんなにも怖れに似たものだとは語ってくれなかった。わたしは怖れているわけではない。だが、その感じは怖れに似ている。あの同じ肺腑のおののき、あの同じやすらぎのなさ、あのあくび。わたしはそれをかみころしつづける。」
と奥さまを天に召された悲しみを語っています。
「かなしい」という言葉を、広辞苑でひくと、「悲しい・哀しい・愛しい」と出てきます。意味は「泣きたくなるほどつらい、心がいたんでたえられない。いたましい」と、まずは出てきます。つづいて「身にしみていとしい。かわいくてたまらない」さらには「興味深くて強く心をひかれる。心にしみておもしろい」。また副詞的に使うと「見事だ。あっぱれだ。残念だ。しゃくだ。貧苦である。貧しく、同情される。どうしようもなくおそろしい」と続きます。
人生の喜びや称賛、栄光が、このような「かなしみ」を内包するものである、そのような「かなしみ」を経験するところにこそ生まれる喜び・・・。
快適さとスピードが追求される現代は、もしかするとこの「かなしみ」を内包できない時代なのかもしれません。
今自分に起こっていること、誰かが語ってくれた言葉、さまざまな出来事や人との出会いと別れ、そういうものの中に「かなしみ」が発見される、そしてそのかなしみを「味わう」。そうしてこそ人生の喜びがしずかに生まれてくるのでしょう。その喜びは、生まれては消えていく喜びではなく、だれにも奪われることのない確かな喜びなのだと思います。
悲しみや苦しみを、広辞苑の言葉のように「身にしみていとしい、かわいくてたまらない、興味深くて強く心をひかれる、心にしみておもしろい」という境地にはなかなか達することはできませんが、悲しみや苦しみのある状態を、そのままに受け止めていければよいかな、と思ったりしています。
ワクチン接種の副反応で腕の痛みや頭痛、発熱と時々伏せる一日を過ごした妻でしたが今朝は元気に起きました。私も昨夜は発熱と痛みがありましたが健やかな朝を迎えました。昨日は朝食づくりのスターティングメンバーとして張り切ってホサナ館に戻ったのですが、私は空振り三振、ベンチ入り、つまり役に立たなかったので、結局妻が不調をおして準備をしてくれることになりました。昨日は朝ドラも最終回で忙しかったです。