静まりの時 2022年4月12日(火)
ルカ22・39~46
「・・・『父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。』・・・イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。・・・」
(ルカ22・42、45、新改訳2017)
マタイの福音書やマルコの福音書ではゲツセマネの祈り(マタイ26・36)と記されるところです。新聖書辞典によると「エルサレムの神殿の東にあるケデロンの谷を渡り,オリーブ山のふもとにある園」「ゲツセマネという名は『油しぼり』という意味」とのこと。「この園にはオリーブの木があり,その果実から油をしぼる圧搾所があったことから,そう呼ばれたのであろう」ということでした。ルカの福音書では、いつもの祈りの場所として「オリーブ山」と記されています。いつもの祈りの場所でささげられてきたイエスさまの祈りが、ここに一つの頂点となった、ということでしょう。イエスさまの地上での生涯は、父なる神さまとの親しい祈りの交わりの日々であったのだと思います。ここにイエスさまの地上での最後の戦いの祈りの時がもたれようとしている、ということでしょう。
十字架を前にして激しく祈られるイエスさま。自らの願いをぶつけるような祈りと、ひたすら父なる神さまのみこころを求める祈りが、激しくぶつかり合いながら、そのまま父なる神さまに注ぎ出されています。
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」(40)。そして「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」(46)。誘惑に陥らないように、と二度イエスさまは言われました。
しかしイエスさまの激しい祈りを目の当たりにしながらも弟子たちは眠ってしまいました。彼らは「悲しみの果てに眠り込んでいた」(45)と聖書は語ります。悲しみが誘惑となって、弟子たちが祈りに生きる道を閉ざすということでしょうか。
誘惑に陥る、ということばは、誘惑の中に、誰か(何か)に誘(いざな)われる、ということではなく、自らが誘惑の中に入ってしまう、という意味だそうです。確かに誘惑されるということは、自らを誘惑する存在の問題が大きいのかもしれませんが、やはり誘惑される自らの中にこそ問題があるのだと思います。
誘惑に陥らず、しっかりと立って祈りの生活に生きるように、と私たちを招いてくださいました。そのために、イエスさまご自身がその最前線にお立ちくださり、祈りの道をひらいてくださいました。
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください」。
十字架に架かるためにこの地に来られたイエスさま。誰よりも十字架の後に復活することを知っておられたイエスさまが、このような祈りをささげておられます。何とみじめな、人間的な祈りか、と言われるような祈りでしょう。しかし私はこのイエスさまのお姿が、自分に最も身近な気がします。このイエスさまならば、自分の弱さや足りなさを何でも安心して打ち明けることができるな、と思うのです。皆さんはいかがでしょうか。
うろ覚えですが、親鸞聖人(しょうにん)の弟子が、聖人のところに行って「一所懸命、念仏を唱えるのですが、私には極楽への確信が生まれないのです」と悲しく相談したときに、聖人は「おまえもか」と答えたとか。イエスさまこそは、誰よりも私たちの弱さのところに、何のとがめだてもせず、ともに立ってくださるまことの神さまです。イエスさまは罪を犯されるお方ではないので「おまえもか」ということではないと思いますが、弱さや足りなさに落ち込む私たちに、そっと隣に座って、大丈夫、大丈夫、と微笑んでいてくださるのだと思います。イエスさまは「わたしも十字架を前に『父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください』と祈ったのだよ、と優しく語りかけてくださいます。
「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」。
祈りとは、小舟に乗った私が岸につながれたロープを手繰り寄せようとするようなことである、とある方は言われました。ロープを手繰り寄せるたびに岸は近づいてきます。しかし実際は自分の方が岸に手繰り寄せられているのです。祈りによって自らが神さまの方に手繰り寄せられていく。そのように自分が変えられていく。それが祈りである、ということでしょう。おおよそ自分の願望が実現することに終始する祈りとは全く違う祈り。それがイエスさまが身をもって教えてくださった祈りなのですね。
昨日は、娘のところの庭にじゃがいもを植えるという妻に付き添って出かけました。
娘の談。朝3歳の長男と1歳半の長女と共に、ダンゴムシ、を玄関に発見。その奇妙な姿に娘も長男も恐ろしさを胸に眺めるばかり。ところが孫娘はまったく躊躇なしにダンゴムシをつまみます。ダンゴムシは予想通り丸くなって固くなります。なかなか不思議な生き物に魅了されているようです。と、それを両手でつまむと、プチっと半分にして、ひとつを「パクッ」。あわてて娘は吐き出させたとのこと・・・。なかなか逞しく育っています。純真無垢というのは恐ろしいことですね。気の毒なのはダンゴムシでした。
次にいつものように母のところに買い物の付き添いで寄りました。買い物を済ませた後、障子紙の貼り換えをすることになりました。昨年病気で入院する前に貼り換える予定で購入しておいた障子紙だったことに気づきました。結局一年後に貼り換えの作業をすることになったのですが、生かされて来たのでこれもできるのだな、とあらためて感謝しました。
(というのは少しいい格好をしての言葉で、実際は「おかあちゃん、こんなじゃまくさいこと、じぶんでしいな~」と小言を言いながらではありました。すみません。)
今朝は、本部の浄化槽清掃でさっきまで出かけて来たのですが、桜が咲いていました。今日もいい天気です。