静まりの時 2022年4月13日(水)
ルカ22・54~62
「彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。『この人も、イエスと一緒にいました。』・・・しかしペテロは、『あなたの言っていることは分からない』と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と言われた主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく泣いた。」
(ルカ22・54~62、新改訳2017)
イスカリオテ・ユダの裏切りを受け、捕らえられたイエスさまは大祭司の家に連れていかれました。
イエスさまは、木曜日の夜に捕らえられ、その夜はまず、大祭司カヤパ(マタイ26・57)、そして夜が明けるとローマの総督ポンテオ・ピラトの官邸に連れていかれました。しかしヨハネの福音書を見ると、この大祭司カヤパの家に行く前に「まずアンナスのところに連れて行った」(ヨハネ18・13)とあります。アンナスは「その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからである」と説明があります。
大祭司とは祭司群のトップでそのポストは1名のみです。ですからこの年カヤパが大祭司として祭司群を掌握し、国家の宗教行政をすべてつかさどっているはずです。そのカヤパのところに連れて行く前に、まずカヤパのしゅうと、つまりカヤパにとっては妻の父のところに、人びとは連れて行った、とヨハネ福音書は語るのです。いったい何が起こっているのでしょう。現代の国に当てはめると、国家の一大事が起こったときに大統領や首相に相談が行く前に、その奥さまのお父さんのところに相談が行った、ということです。若い牧師が遣わされた教会でいうと、その現牧師に相談が行く前に、前任の牧師に相談が行くようなものですね。伝統的な教会に仕える牧師の友人たちで2世、3世の牧師がいますが、役員会運営の中で、先に先代の牧師だった父に相談が行ったり、その影響の中で苦慮しているのがいました。
それはそうとして、ここに当時のイスラエルの宗教的な混乱、信仰的な問題が国家的なレベルで起こっていたことを知らされます。
教会は、教憲・教規・規則によって運営されます。そこにはさまざまな安全装置がついています。罪びとである人の事情や力関係によってカルト化しないための安全装置です。教会には羊ばかりではなく狼もやってきます。長く牧師をしていると、そういう事件に出会っていきます。残念ながらそれで教会が分裂したりということも起こります。しかしそのような傷ついた教会にあって、忍耐をもって祈り続けてきてくださった方々がおられます。そのような方々の祈りによって教会は立っています。そしてなによりも、教会を、わたしのからだである、と言って下さっているイエスさまによって、私たちは支えられています。引っ越しや教理以外の理由で転入してくる人には要注意であると神学校では教えられるのですが、牧会に出ると、その見極めはなかなか難しいものです。学校でも3月まではどうしようもない生徒であっても、4月からは心を入れ替えて頑張ろう、というのもいるでしょう。それを最初から色メガネで見てしまっては、見誤ることもあるでしょう。しかし数年たてば、やはり本性(ほんしょう)は出てきてしまうものなのかもしれません。
さてイエスさまが逮捕後連れていかれた大祭司の庭での出来事。ペテロは遠く離れてついて行きました。そこで幾人かの人に、イエスの仲間だ、と指摘され、その都度それをペテロが否定した、ということが起こりました。三回目の否定をしたところで鶏が鳴き、その鳴き声に、イエスさまがかつて語られた言葉を思い出し、ペテロは激しく泣いた、と。
「人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし・・・」
「火」。そしてそれは「明かり」。おそらく暖をとるために、真中に火がたかれています。しかし「火」は同時に「明かり」(原文では「光」)です。身体を暖めようとして真中に出ることは、同時に真中にある「光」に照らし出されることになります。
暖かさを求めると、必定、自らが照らし出されることになる。自らが照らし出されることを拒否するならば、いつまでも身体を暖めることができない。なんとも不思議な状況が生まれています。
神さまの愛の光から暖かさをいただくためには、その聖い光に自らのすべてが照らし出される必要があるのです。教会に来て、神さまからの愛をいただき愛に生かされたいと願うならば、同時に、自らの罪に出会い、罪を悔い改め、自らの隅々まで神さまの聖い光によって照らし出されることが必要なのです。自らの暗やみを照らされることなしに、神さまの愛に暖められることはありません。
「主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と言われた主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく泣いた。」
主が振り向いてペテロを見つめられたと記しているのは、このルカのみで、他の共観福音書もヨハネ福音書も記してはいません。おそらくこの時、大祭司の庭にいるペテロを振り向いて見つめることができるような位置に、捕らえられたイエスさまが立っておられるわけではないでしょう。しかしどの福音書も共通して記している「主のことばをお思い出した」。この「主のことばを思い出した」ということは、ルカにとってはまさに主が振り向いて見つめてくださる体験であった、ということではないでしょうか。私たちも日々御言葉を読むということは、主が振り向いて見つめてくださることなのです。
「外に出て行って、激しく泣いた」。
ペテロは、イエスさまを否定した自らを省みて涙しました。反省の涙なのでしょうか。それもあるでしょう。しかし私はもう少し別のことを考えます。
ペテロがここで思い出した主のことばは、十字架の前にイエスさまから語られた言葉です。それは、誰よりも私はイエスさまに従います、たとえ死ななければならないとしても従います、といったときでした。自らが裏切るであろうことを微塵も感じていない、自信にあふれたペテロに語られた言葉です。
「『・・・シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』
シモンはイエスに言った。『主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』
しかし、イエスは言われた。『ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。』」(ルカ22・31~34)
ペテロが思い出したのは、この言葉です。ここで主が語られたことは、ペテロが裏切ることをイエスさまは知っておられた、その上で、ペテロのために祈っていてくださった、さらには立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい、と期待を失わずにいてくださった。失敗しないから自分を受け容れ、自分を用いようとしてくださったのではなく、失敗しても、そのことを十分に知ったうえで、祈り期待していてくださる。そんな主の愛に出会ったのではないでしょうか。
イエスさまの叱責の言葉に涙したのでは全くありません。イエスさまの愛に出会って涙したのです。この涙は、人を再び立たせ新しくします。