静まりの時 2022年4月14日(木)
マルコ14・22~26
「さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。
『取りなさい。これはわたしのからだです。』
また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。
『これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。』
そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。」(マルコ14・22~26、新改訳2017)
今日は受難週の木曜日。「聖書愛読こよみ」には「洗足木曜日」と記されています。もう数年前になりますが、この日の夜に礼拝堂で聖餐礼拝を行い、洗足、互いの足を洗う、あるいは牧師である私が兄弟たちの足を洗う、ということをしたことがありました。
イエスさまは、まもなく逮捕され理不尽な裁判のあと十字架に架けられる、というその最後の食事の席において感謝の祈りと賛美をして裂かれたパンとぶどう酒が酌(く)まれた杯を弟子たちに与えられました。弟子たちはイエスさまのすすめられるままに食べ、そして飲みました。今日私たちはイエスさまのおことばに従って聖餐式としてこれを行っています。
「一同が食事をしているときに」。
この最初の聖餐式は、食事の中で行われました。ある先生は、前菜などが終わりいよいよメインディッシュがここから始まる、と言われていました。食事の中で、テーブルマスターであるイエスさまが立ちあがり、感謝の祈りをささげ、賛美を献げ、そしてパンを配ってくださる、杯を配ってくださる、弟子たちはそれを受けて食する。そんな光景です。和やかな食事の一風景のようですが、このメインディッシュの締めくくりに
「まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません」
と言われた途端、このパンと杯の食事が、彼らにとって生涯忘れることのない緊張を伴った特別なものになったのだと思います。
「これはわたしのからだです」。
「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です」。
イエスさまはいつも食しているパンを指して、これはわたしのからだ、杯に酌(く)まれたぶどう酒を、これはわたしの血、と言われました。
それを言われた途端に、パンが目の前で血の滴る肉に変化したわけではありません。ぶどう酒も、55パーセントの血漿成分と45パーセントの細胞成分、ヘモグロビンなどで構成される赤血球や、免疫機能を持つ白血球、止血作用の血小板などに変化したわけではありません。
しかし、同時にパンを指して、これはわたしのからだの「象徴」です、血を指して、これはわたしの血の「象徴」、つまりたとえです、大切なのはそれを受ける者の精神です、と言われたのでもありません。
イエスさまは単純に、しかもはっきりとパンとぶどう酒を指して、これはわたしのからだ、わたしの血、と言われたのです。ですから信仰者にとっては、これはイエスさまのからだや血を単に象徴しているものではなく、やはり文字通りイエスさまのからだであり血なのです。しかしまた同時にそれが実体的に変化しているとも考えていません。
実体的に変化するのでも、単なる象徴でもない。もしこのいずれかに偏ってしまったとき、聖餐の恵みは失われます。
ですから、このパンとぶどう酒がイエスさまのからだであり血である、というのは信仰者にのみ起こしてくださる神さまの奇跡なのです。私たちは、聖餐にあずかるごとに、イエスさまのからだを食し、イエス様の血を飲むという奇蹟にあずかっているのです。パンを食べる、ぶどう酒を飲む、という行為において、そこに奇跡が起こっているのです。
この奇跡は信仰者のみに起こるのですから、聖餐を受ける者は、必ず洗礼を受けた者でなければなりません。洗礼は、この聖餐を受けるために受けるもの、と言ってもよいかもしれません。「いえいえ洗礼を受けていなくても私は心の中で信じています」という人もいるでしょう。そういう人も聖餐にあずかることを許容する教会もあるでしょう。しかし「私は心の中で信じています」という「私」とは確かな存在なのでしょうか。私の意志とか感情は真実を持っているのでしょうか。私は自分のことをそんなに確かなものだとは、思えません。自分がいい加減で、適当で、不真実で、罪びとであること。昨日ああいったと言えば、今日はこう言う、みたいなものであることを、だいたい知っています。ですから自分の信仰を問うときに、いまから40年前に、粉雪のちらつく琵琶湖で、イギリス人宣教師マケリゴット・パトリック先生から、もう一人の姉妹といっしょに、水に浸けていただき、父と子と聖霊によって洗礼を授けます、と波に揺られながら宣言していただいた歴史的な出来事に、自らの信仰の根拠を発見するのです。
自らの罪や足りなさにふさぐときも、神さまの一方的な恵みによって私は神の子としていただいたのだ、と。本当にふさわしくない者だけれども、ただ洗礼を授けていただいたというところに信仰の根拠を見いだし、イエスさまのからだと血を食させていただき、今日もイエスさまのいのちに生かされている、イエスさまのいのちに生かされて行くのだ、と本当に感謝しています。
いよいよ明日は受難日です。