静まりの時 2022年4月6日(水)
詩篇96・1~9
「新しい歌を主に歌え。
全地よ主に歌え。
主に歌え。御名をほめたたえよ。
日から日へと御救いの良い知らせを告げよ。・・・」(詩篇96.1,2、新改訳2017)
「新しい歌」。この新しさとは一体何でしょうか。何が新しいということなのでしょうか。何をもって新しいということができるのでしょうか。
現在、プロテスタント教会の礼拝で歌われている讃美歌は、二千年の教会の歴史の中で生まれた賛美です。さまざまな文化や考え方の中で生まれた賛美です。神さまを賛美するために作詞作曲されたものも数多くあります。世で歌われていた歌、民謡や流行歌に歌詞を変えて讃美歌としているものもあります。慣れ親しんだ旋律に乗せて神さまを賛美することも喜びとします。今日、ゴスペルやコンテンポラリーな楽曲の賛美も数多く作られ歌われています。そうかといえばグレゴリオ聖歌などの古典的な、千年以上前に作られた賛美も歌われています。
この「新しい」(ヘブル語でハーダーシュ)という言葉には「更新する」という意味があり、語源を同じにする言葉には「新月」(ヘブル語でホーデシュ)という言葉もあるそうです。月は、今も昔も同じ月ですが、満ち欠けがすべてなくなりまた新しく光の部分が生まれてくる、その予感の中にある月。そこにある新しさということでしょうか。
それは、今までに存在しなかった新規のものというよりも、同じものでもそれがリニューアルされている、さらにいうとそれを手にする者の心が新しくされている、ということかもしれません。
主に向かって新しい歌を歌う。それは歴史の中で歌い継がれてきた歌であっても、今生きる私が心を新しくされて歌う、ということかもしれません。逆にどんなに現代的な歌であっても、心が新しくされていないならば、それは新しい歌を歌っているのではないのかもしれません。
人間はどうして歌うのでしょう。歌、あるいは唄、詠、詩、唱、謡・・・。同じ歌うということを、これだけさまざまに感じ取っています。喜びのときに歌い、悲しみの時に、嘆きの時に歌います。さらにはことばにならない、声にならないうめきも歌の一つかもしれません。
キリスト教会は歌う宗教です。明治期にキリスト教の布教活動の壁となったことの一つが音楽教育であった、と聞いたことがあります。それで初期の音楽教育はキリスト者たちが深く関わりました。日本人の心を歌った「ふるさと」の作曲者である岡野貞一は、キリスト者で東京の本郷中央教会のオルガニストであったと伝えられます。
礼拝で歌う賛美は、すべて祈りである、といってよいと思います。祈りを歌に乗せて、神さまを礼拝したのです。上手下手は関係ありません。心を込めて主に祈り、そして歌うのです。そこに新しさがあります。
祈りでない賛美、あるいは祈りとなっていない賛美は、もしかすると新しさが失われている賛美なのかもしれません。賛美が祈りであるということは、賛美は御名をほめたたえることであるということでもあるでしょう。人間をほめたたえるのではありません。演奏者を賛美するのではありません。伝統的に礼拝での賛美奉仕者は、いわゆる光物(宝石などということでしょうか)をつけなかったと言います。前に立つこともしません。賛美奉仕者の席は間違っても正面にはありません。そういえば、説教が語られる講壇も伝統的な教会では、正面にはありません。正面にはただ十字架と聖餐卓(机)があるだけです。
神さまに向かうことを妨げる賛美の在り方は、この詩篇の語る新しさを見失っているのかもしれません。
昨年の夏、退院の日。病院からの帰り道、妻の運転する車の助手席の、その窓から眺める湖東の景色は、きらきらと輝いていました。見慣れた景色が、新しい輝きをもって目に映るのです。いのちが神さまから与えられたものであり、神さまによって今生かされている、という喜びが、感謝が、目に映るものを新しく輝かせるようです。
きっと神さまに生かされている喜びと感謝の心が神さまへの祈りとなるところに賛美の新しさがあるのでしょう。
昨日は、牧羊会で神学セミナーが行われました。ハラスメントセミナーということで、さまざまなハラスメントについて学びました。身につまされることもたくさんありました。とても良い学びの時間でした。教会からも参加してくださる方がおられ感謝でした。ビデオがとられましたので、後日ユーチューブで見ることができると思います。またアドレスが分かりましたら案内します。
田んぼに水が入り始めました。季節も新しい気持ちで前進しています。
アオサギも頑張っています。