自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか

静まりの時 2022年4月5日(火)
マルコ8・31~9・1

「・・・自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。・・・またイエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。』」

(マルコ8・35,36、9・1、新改訳2017)

 自分のいのちを救おうと思うとかえって失ってしまう。いのちは全世界よりも大切なものである。自分のいのちを救うために、失わないために、日々十字架を負ってイエスさまに従っていく。そうして一見自分のいのちを失っているように見えて、実はいのちを救う道、いのちを豊かに生きる道がそこに在るのだ、とイエスさまは弟子たちに語られました。
 「わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救う」という言葉を、来世に焦点を当てて読むこともできるでしょう。たとえこの肉のいのちが失われても、天の御国が約束されている。永遠のいのちに生きる道がある、と。
 あるいはこのいのちを、今生かされているいのちと理解することもできるでしょう。十字架を負うような、いのちを削るような生き方の中に、いのちが輝くのだと、理解することもできるでしょう。そのような輝いたいのちに生きる人生こそ、永遠性を持っている、と考えてもよいでしょう。
 いずれにせよいのちが一番大事だといたずらに思い込むと、かえってそれを失ってしまう。いのちよりも大切なこと。イエスさまの御声に聞き、イエスさまに従っていくことこそ大切なことなのだ、と受け取る時、私たちは、自分自身の人生を本当の意味で豊かに、楽しく、また自由に生きることができるのです。

「いのちが一番大切だと
 思っていたころ
 生きるのが苦しかった
 いのちより大切なものが
 あると知った日
 生きているのが
 嬉しかった」(おだまき 1986年)

星野富弘、『鈴の鳴る道』、80頁

 さて、このマルコ8章の言葉に9章1節の言葉が続きます。少し謎の言葉だと思います。

「ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

 なぜこのような言葉を、このタイミングで、あるいはこの個所で語られたのでしょうか。
 神の国が到来するまで、すなわち救いの時、恵みの時と考えてもよいでしょう。その時まで死を味わわない者がいる。それはまた死を味わう者もいる、ということでしょう。弟子たちはどのようにこの言葉を聞いたでしょう。横目でお互いの顔を見ながら、彼よりも自分は長生きするだろうか、それとも先に自分は死んでしまうだろうか、と考えることになったのではないでしょうか。同じようにイエスさまに従っても、それぞれのいのちに長短がある、いわば分け隔て、不公平がある、と感じたのではないでしょうか。
 日々十字架を負ってイエスさまに従っていく、ということと、この分け隔て、不公平があるということとどのようにかかわるのでしょうか。

 イエスさまは十字架を負って従うことを

「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」

と言われました。私たちが従うべき十字架は「自分の」十字架です。だれかれの十字架ではありません。自分だけに与えられた十字架。特別な、唯一の十字架。自分にしか負えない十字架。自分だからこそ負うことが許される十字架。その十字架を負って、わたしに従って来なさい、と招いてくださったのです。それがいのちに生きる道をひらくのです。十字架を負うときに、誰かと比較する必要はないのです。比較することから自由にされているのです。だれに文句を言われようとも、それが十字架かと笑われようとも、自分に神さまが与えてくださった十字架を負って生きていく、それがイエスさまに従う道である、と生きていく。そこに全世界よりも重たい自分のいのちに生きる道があるのです。

 病を負って病床に仕えるという十字架があります。家族のために時間をささげて職務に励むという十字架があります。疲れて帰る者を迎えるために部屋を暖め食卓を整えるという十字架もあるでしょう。登校する子どもたちを笑顔をもって送り出すという十字架もあります。誰かを世話するという十字架もあるでしょう。あるいは誰かの世話になるという十字架もあるかもしれません。ただ喜んで自分自身を愛して生きる、という十字架も大切な十字架です。

 昨年の入院中、冠動脈のバイパス手術をされた方が隣のベッドにおられました。漏れ聞こえてくる回診の医師との会話からも順調に快復されているようでした。しかし、夜になると、すこし苦しむような、誰に訴えるのでもない痛みのささやきが聞こえてきました。それを聞きながら、人間には健やかに感じている時と、どこか表現できない痛みを感じている時があるのだな、と思いました。
 昔、医師になった元教会学校の生徒と話す機会があって、彼が、医者も痛みについて十分に知っているわけではない、と言った言葉が思い出されます。緩和ケアが徐々に前進していたころだったと思います。痛みのコントロール、ということもテレビで聞かれる時代だったと思います。
 痛み、あるいは傷み、また悼み。それは自分自身も解明できないところ含んでいるのだと思います。そんな言語化できないものを、また自分の十字架として負っていく。そこにもいのちに生きる道があるのだと思います。
 退院後8か月が過ぎるのですが、スイっとしないのですね。しかしこのもやもやした痛みというか、不調というか、それも自分自身である、と受け止めると、良いのかもしれません。

以前に紹介したかもしれませんが、観想的な生き方に

「快楽・快適さを求める生き方から、苦しみを受け入れる生き方へ」

という言葉があります。

 痛みのない快適な状態だけがノーマルな状態ではなく、痛みをかかえた、いわば十字架を負う状態もまたノーマルな状態なのだ、と受け入れれば、案外、普通に生きることができそうです。