静まりの時 2022年4月4日(月)
ローマ5・1~11
「・・・しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。・・・」
(ローマ5・8、新改訳2017)
「信仰によって義と認められた」「神との平和を持っている」「恵みに導き入れられた」「神の栄光にあずかる望みを喜んでいる」「苦難さえも喜んでいる」「希望は失望に終わることがない」「神と和解させていただいた」「神を喜んでいる」・・・。
このような者へと招かれたのは「神の愛が私たちの心に注がれている」からです。その神さまの愛とは「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって」明らかにされた愛である、といいます。
つまり私たちが何の功績もなしていないとき、そればかりか、むしろ神さまに敵対している罪びとであったときに、キリストが私たちのためにしなれたこと。ここに神さまの愛とは一体どのような愛であるのかが明らかにされている、というのです。その愛が私たちの心に注がれているので、私たちは日々平安の中に生きることができる、喜びを持って生きることができる、決して失われることのない希望に生きることができる、というのです。
もしこの愛を見失ってしまったら、平安も喜びも希望のない人生に逆戻りしてしまうのです。信仰生活を、そして人生そのものを支えているのは、この神さまの愛です。
ですから今日の一日の私たちの歩みも、愛を獲得するための一日ではなく、すでに無限に注がれている神さまの愛によって支えられていく喜びの一日です。
そこかしこにある燃える柴
こういう詩があります。
この地は天で満ちている
どのふつうの柴も神の火で燃えている
しかし、それに気づく者だけが履物(はきもの)を脱ぐ
ほかの者はただその周りに座り、木いちごを摘む
(エリザベス・B・ブラウニング)天とは神のおられる場所です。ブラウニングは、「この地は天で満ちている」と言います。燃える柴を通して主がモーセに語ったように、私たちの周りにある何の変哲もない柴も、じつはみな、神の火で燃えているのだと言います。けれどもそれに気づく者だけが、自分が聖なる地に立っていることに気づき、履物を脱いで主を仰ぎます。ほかの人たちは、自分のすぐそばに神の燃える柴があることに気づかず、自分の仕事に気を取られ、忙しくしているのです。
燃える柴はそこかしこにあり、神は私たちにあらゆるものを通して語りかけようとしておられます。それなのに、自分の手のわざにばかり夢中になり、忙しさに翻弄されているなら、私たちはすぐそこにある燃える柴を、主の臨在と招きを、見逃してしまうかもしれません。(中村佐知、『魂をもてなす 霊的同伴への招待』、あめんどう、2021年12月10日発行、76頁f)
「燃える柴はそこかしこにあり、神は私たちにあらゆるものを通して語りかけようとしておられる」。そこで語られる神さまの言葉は、何よりも愛です。あなたを愛している、何があっても大丈夫、という言葉です。この世で私たちの耳に、そして心に響いてくる言葉はそうではありません。しかし信仰の耳を澄ませてみると、あらゆるものを通して語りかけようとしていてくださる神さまの御声が聞こえてきます。
今朝いつものようにNHK・FMで6時からの古楽の楽しみを聞こうとすると、英会話が聞こえてきます。あれおかしいなと思って調べてみると、春の番組編成(変成?)で古楽の楽しみが5時からとなり、6時からはラジオ第2と同じ番組で中学生の基礎英語を放送していました。朝ドラの影響でしょうか。
昨日は、聖餐式の黙想を行ってみました。あらためて聖餐式について思い巡らす時をいただき感謝しています。聖餐は無限の愛で愛されているその愛を身体全体で味わうときですが、依然コロナ禍で飲食ができないので黙想を行うことになりました。感謝します。
土曜日に姪の結婚式で出かけました。この8か月食べなかったおいしすぎるものを食べることになりよかったです。京都の木屋町通り沿いのその結婚式場の前には桜が満開でした。
式前に立ち寄った姉の家ではまず猫が迎えてくれました。なかなか迫力のある雄猫でした。