罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました

静まりの時 2022年4月3日(日)
ローマ5・12~21

「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5・20)

 「罪の増し加わるところ」。犯罪が多発するところ、あるいは倫理道徳的な違反が横行するところと考えてもよいかもしれませんが、私たちはみな罪びとですので、その罪びとが、自らの罪性に気付いたところ、罪深さを見せつけられたところ、と考えてもよいかもしれません。
 私たちは自分が罪びとであるとはいうものの、誰かを指さし、あれよりはましである、とどこか勘違いしています。パウロが言うように、自分こそ罪びとの頭(かしら)なのです(第一テモテ1・15)。その勘違いがただされ、本当に自分は罪びとの頭だな、と深く感じるときは、やはり具体的な罪を犯したときなのだと思います。
 そのようなときに「恵みも満ちあふれました」とパウロは語りました。なぜなら自分は罪びとの頭なのだ、と思い知らされた時にこそ、「あなたの罪は赦された」という主の御声を確かに聞くことができるからでしょう。あるいはそのようなときにこそ主からの赦しのみ声を味わい知ることができるからでしょう。罪を知るごとに、赦しの言葉を聞くのです。ですから罪を知るごとに、恵みが満ち溢れるのです。
 教会はこの赦しの言葉を語るところ、また聞くところです。悔い改めの見返りとして赦しが与えられるのではありません。信仰の見返りとして赦しが与えられるのでもありません。赦しが与えられるからこそ悔い改めが起こり、信仰が生まれるのです。