わたしの弟子となることによって

静まりの時 2022年4月2日(土)
ヨハネ15・6~10

「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」

(ヨハネ15・8、新改訳2017)

 栄光とは、何度も言うようですが、旧約聖書では「重たい」という意味です。ですから神さまの栄光と言うと、神さまが重たい、すなわち神さまの存在感がある、ということです。確かに神さまがおられる、神さまは生きておられ働いておられる、とこの世が知る、ということ。そのためには、イエスさまを信じる弟子たちが多くの実を結ぶこと。それが必要である、といいます。あるいはここでは多くの実を結ぶことによって弟子であるということが明らかになる、それによって、この世が神さまのご存在を知ることができる、というのです。
 「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5・22,23)という実が人生に結ばれている人、そうしてキリストの弟子であるということが明らかになっている人の存在は、この世に、神さまが確かにおられる、ということを明らかにしているのです。百の言葉や説明よりも、一つの愛の人生が、あるいは喜びの人生が、目に見えない神さまを明らかにする、ということでしょう。自分自身がまったくそれにそぐわない者であることを思います。愛が足りなく、喜びもなく、いつも心配をして心が狭く、親切心からは遠く、善意も、誠実さもない、柔和どころかいつも不機嫌で、さらには自分を抑えることができない、まったく衝動的な人生であることを思います。
 ただ多くを望まず、今日を喜びを持って生きることを心掛けたいと思います。

 今日は備えの日、明日は主の日。良い備えの一日を送りたいと思います。と、今日はコロナ禍で延び延びになっていた姪の結婚式に出かけます。いろいろあって朝4時に出発するとのこと。やれやれ。もちろん司式をするわけではなく一親せきとしてホテルの食事を食べに行くだけですが、塩分とコレステロールを考えながらの食事になることに不安を覚えつつも新しい家庭の祝福を心の中で祈って来たいと思っています。

 明日の主の日では、聖餐式の黙想の時を持つことを予定しています。飲食は依然難しいく配慮の必要なことなので聖餐式は行いませんが、聖餐式について思い巡らすことは可能であろうということになりました。

「・・・したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。」(第一コリント11・23~29)

 初代の教会は、聖餐式に参加する者に厳しくそれに与るふさわしさがあるかを問いました。「ふさわしくない仕方で」とありますが、ではふさわしい仕方とは何か、それは「自分自身を吟味して」ということでしょう。それが「みからだをわきまえること」なのでしょう。
 自分自身が聖餐に与る資格があるかどうかを吟味する、具体的には、自らの信仰を問う、あるいは罪を問う、悔い改めを問う、ということでしょう。では罪を犯さなかった者だけが聖餐に与ることができるのか。もしそうであればだれも聖餐に与ることができません。自分を吟味するということは、みずからが罪びとであるということを知る、告白する、ということです。そしてイエスさまの十字架と復活によってのみ赦しに与り、今生かされていることを知る、告白するということです。つまり、自分がいわゆる「ふさわしくない者である」ということが分かっているという人がここでは「ふさわしい者である」ということなのです。私は信仰もしっかりしているし、大きな罪も犯さずそこそこに生きている、少なとも「あれ」よりはましだ、などと思っているならば、ここではふさわしくない者、ということですね(笑)。
 それで、どうしても洗礼を問うということになるのです。洗礼は、自らの力では救われない者を、神さまが一方的な恵みによって救っていただいたということを、歴史的な事実としてこの世界に刻んでいただいた出来事ですから、それを自らの赦しの土台とする、ということなのです。もし洗礼を問うことをしないとすれば、自分のふさわしさが、それぞれの主観的な行いの振り返りによることとなり、神さまの恵みはどこかに行ってしまいます。それはもうキリスト教ではなくなってしまうことでしょう。ですから洗礼も、そこに人間的な努力や功績や行いの入る隙間を与えない、ということが重要なこととなって来ます。洗礼の際になされる証しも、いわゆる個人の立派な信仰が語られるのではなく、罪の悔い改めと神さまの一方的な恵みによる救いが語られることが大切だと考えています。