花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか

静まりの時 2022年4月7日(木)

ルカ5・33~39

「また彼らはイエスに言った。『ヨハネの弟子たちはよく断食をし、祈りをしています。パリサイ人の弟子たちも同じです。ところが、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。』イエスは彼らに言われた。『花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか。・・・」

(ルカ5・33,34、新改訳2017)

この「彼ら」とは、30節の「パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たち」のことでしょう。前の段落からの対話が続いています。バプテスマのヨハネの弟子たちや、パリサイ人の弟子たちは、よく断食をしている、しかしイエスよ、あなたの弟子たちは断食をするどころか、集まっては食べたり飲んだりしている、いったいどう言うことか、と。ちっとも宗教を求める者たちらしくないではないか、信仰に生きる者たちとしては不十分なのではないか、と。

それに対して、イエスさまは答えられました。「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか」と。

ここで「花婿」とはイエスさまのこと、「花婿に付き添う友人たち」とはイエスさまの弟子たちのことでしょう。イエスさまの弟子たちは、花婿に付き添う友人たちなのです。イエスさまと一緒にいるということは、いつも婚礼の宴会の席についているということなのです。

先日も親戚の結婚式があったと書きましたが、婚礼の宴会の席というのは楽しいものですね。むかしは職場の上司や親せきの挨拶などが長々と続き、どこか堅苦しいところがありましたが、この間のそれは、友人による楽しい乾杯の挨拶にのせてシャンパンで始まりました。つづいてつぎつぎにホテルの方が食事を出してくださいます。両家の両親がそれぞれにあいさつに回ることも少しありましたが、終始友人たちのパフォーマンスや、動画を中心にした新郎新婦の楽しい紹介が続きます。姉には5人の子どもがいて、その中で結婚しているのが3人、今回4人目、それぞれに子どもがいます。つまり姉からすると孫が数えて8人だったでしょうか。その子どもがまだ小さいので宴会場を走り廻ります。それを両親が追いかける。あちらで食器の落下音。こちらで泣き声。その中で動画の紹介。司会者が一所懸命に進行していきます。ここぞとばかりに初対面同士で写真を取り合っているのがいます。駆け巡るように料理を運んでくださるホテルの方をつかまえては、こっちにビール、こっちはジンジャエール、お水ちょうだい、と声が飛んでいます。会場には二人の門出を祝福しようという明るい心が溢れていました。イエスさまは、信仰生活というのはそういう生活だと言い切って下さったのです。

もしそのような席に招かれているのに、一人断食していては招いてくれた方に失礼でしょう。またそのような席に招いておきながら断食を強いる主催者というのもおかしなことでしょう。今日も私たちはこのような楽しい一日を過ごすのです。

またイエスさまは弟子たちのことをここで「友人」と言って下さいました。

友人とは一体何でしょうか。そこに育まれる友情とはいったい何でしょう。

この世界にはさまざまな愛のかたちがあります。親子の愛、夫婦の愛、いずれも無償の愛がそこに秘められています。しかしそれらにはどこか運命づけられたもの、かたちとしての枠組みがあります。親子の関係はそれぞれが選択することができない部分を持っています。夫婦であれば、社会的な責任という枠組みがあります。それに対して友情は、双方の完全な自由の中で選択されていく愛です。

ですから親子の愛、夫婦の愛の中にも、この友情の部分が必要である、と思います。そうでなければいずれ支配的になり、そして破壊的になるでしょう。

ヘンリ・ナウエンは、ある本の中で

「私たちは、自分自身の友だちでしょうか。・・・自分自身の友となることなしに、他の人々とよい友情を育てることは出来ないからです。・・・どうしたら私たちは自分自身の友となることが出来るでしょうか。私たちは、自分自身の真実を認めることから始めなければなりません。・・・私たちの存在の最も深い部分は、精神や感情の支配の及ばないところにあります。・・・私たちの魂を、愛の神が受け入れてくださることを信じる時、私たちは自分自身の友となり、愛の交わりの内に他の人々に手を差し伸べることが出来るでしょう。」

(ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』、119頁)

イエスさまは、私たちを「友」と呼んでくださいました。私たちと友情を育むことをお望みになっておられるのです。私たちは、イエスさまの友人として今日を生きるようにと招かれているのです。どうして断食などしておられるでしょうか。今日も宴会の一日です。

先日の牧羊会・神学セミナーで、パワーハラスメントについて学びましたが、その中で、牧師たちも友人が必要である、ということが講師から語られました。ドメスティックな暴力が起こるところは、どこか支配する者と支配される者という枠組みが生まれていますが、それらから自由にされた関係が築かれている。そのような中に自分自身を置いている、ということが大切なのかなと考えました。教会の中で育むべきはこの友情なのかもしれません。牧師もしもべですし、役員も執事ということですからしもべなのです。にもかかわらず「指導してあげなければならない」などと考え始めると途端にパワハラの状況が起こるようです。

さてこの聖句は、新しい革袋と古い革袋のたとえが続き、

「まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」(39)

という言葉で終わっています。

このたとえ話は、決して新しい物が良いというたとえ話ではないようです。ワインの中には年代物でよいものがあるとか。イエスさまが教えてくださった教えは、律法学者たちの「古い教え」に対して語られた新しい教えというのではなく、もともと聖書が語る教えは、上記の宴会場のような楽しいものだったのだということではないでしょうか。エデンの園の生活はまさにそうなのだと思います。それを律法学者やパリサイ人たちは「律法主義」という、いわゆる「新しい教え」にしてしまったのだと思います。イエスさまはもう一度「古いぶどう酒」「年代物のワイン」を味わうようにと私たちを招いてくださったのだと思います。救われるということは、エデンの園での生活を取り戻すということなのです。

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